小川 康の『ヒマラヤの宝探し 〜チベットの高山植物と薬草たち〜』
2009年1月9日、フォトジャーナリスト川畑嘉文さんは僕への取材を終えると、次なる取材地パキスタン・ペシャワールに向けてダラムサラを後にした。ペシャワール地域では国の法律よりも部族の掟がより強い効力を持っており、銃も普通に軒先で売っているという。しかも米軍による介入により混乱が生じ、治安が悪化し、緊張した状態が続いているという。だからこそ川畑さんは危険を承知で取材に行かねばならないというが、凡人の僕にはなんと声を掛けたらいいか分からず、「気をつけて」というありきたりの文句もどうも喉にひっかかる。そこで僕はチベットにおいて最高のお守りとされる赤い「チャク(御加持の)ネ(青麦)」を見送りの際にプレゼントしてあげた。
チャクネはチベットの三大守護神のお一人であるネチュンのお寺、その名もネチュン寺(ダラムサラ)で製造される。そしてクテンと呼ばれる神降しにネチュンが降臨されたときに御加持を込められることから、まさに神様が直接、力を与えてくださっている有難いお守りであるといえる。一方でネ(青麦)はチベットを代表する穀物で、ネを炒って粉にしたものをツァンパ、ツァンパにバター茶を混ぜて練ったものをパクと呼びチベット人の健康を支え続けてきた主食である。つまりネは聖と俗の両面においてチベット人を支えているといえる。
ネチュン寺のチャクネ
ヒマラヤ薬草実習の朝食は
ツァンパと決まっている。
ネ・ニ・チ・スィル・シャンペル・トプケー・チョク
青麦は重性、涼性を備え、大便を増し、体力を生みだす最高の穀物である。
四部医典・論説部第16章
チベット人は特に亡命や巡礼の時など旅の安全を願って、財布、カバンなどの中にチャクネを数粒ずつ入れ、ここ一番の場面では口にすることで難局を乗り切っている。以下はチベット人から聞いたチャクネの効力に関する貴重な証言である。
証言1: | 私の友人がインド軍の一員としてパキスタン紛争に参加したときのことです。テントの周りにチャクネを蒔いておいたら、そこだけ爆弾が落ちなかったのです。また奇跡的に銃弾に当たらなかったという話もたくさん聞きました。 |
証言2: | チベットから亡命してくるとき、ネパールの商人の娘に変装して国境の検問所を通過しようとしたのです。私はチャクネを口に含みながら「発覚しませんように」とお祈りしていたのですが、おかげで無事でした。 |
証言3: | インド・ネパール国境ではチベット人に対する嫌がらせが凄く、関税と称して大事なものが取り上げられることがよくあります。でもチャクネを忍ばせておくと、なぜか国境の役人にはその荷物が見えなくなるのです。本当に不思議です。 |
証言4: | 近所で火事が発生したとき、急いで家中にチャクネを蒔いたら、私の家だけは不思議と延焼を免れました。 |
このほか、証言を挙げればキリがないのは言うに及ばない。このお守りを入手するため、無宗教家を誇るこの僕が(第50話参)彼のために百歩譲って、ネチュン寺に敬虔な仏教徒のごとく礼拝をし、寄付を差し上げたあとに「チャクネをください」と堂守さんに頭を下げたのである。しかも柄にもなく仏前で「川畑さんが無事に帰ってこられますように」とお祈りしたなんて、間違っても恥ずかしくて当人にはいえない。というか彼が無事じゃないと、このエッセーを永久にアップできないという現実的な側面も見え隠れしている。
「チャクネが50粒くらい入っていますから銃弾50発までは防げますが、それ以上は期待しないでください」なんて冗談で笑いつつ、最後に「なぜいつも、あえて危険な地域へ出かけていくのですか」と単純な質問をぶつけると彼はやっぱり笑いながらこう答えた。
「生きていることを無駄遣いしたくないんです」
うん、なんとなく分かるような気がします。でも川畑さん、生きていることを実感する別の手段として、今度、日本で美味しいお酒を飲みましょう。けっして命の無駄遣いにはなりませんから。どうか今回も無事に帰ってきてください。待っていますよ。 (1月10日夜、記す)