小川 康の『ヒマラヤの宝探し 〜チベットの高山植物と薬草たち〜』
『ヒマラヤの宝探し』もいよいよ終わりに近づいたけれど、2004年、1年間の休学についてまだ詳しく触れていないことに気がついた。それは振り返ってみればこの旅のちょうど折り返し地点であり大きな転換点であったともいえる。
「古代教典に記されている比喩的かつ抽象的な知識は具体的にいったい何の役に立つというのか」大学3年生を迎えた2004年春、そんな疑問に痛みを感じるほど強く苛まれたことが全ての発端だった。それはチベット語の勉強を始めてから5年、息をつく暇もなく走り続けてきたことの反動だったのかもしれない。そして行き場のない虚しさは僕を必要以上に教育改革への学生運動へと駆り立てた。いまでも13期生の同級生たちはあのとき僕が大学との大喧嘩の末に休学したと思っており若干の負い目を感じているようだ。日本からのエアーベッド寄付を巡る生徒・大学間の綱引き。「教室を博物館に」という僕のプロジェクトに対する大学側との摩擦。特に一緒に先頭に立って大学との交渉に当たっていた親友のジグメ、ペンパの心中は想像に難くない。でも休学の本当の理由はそこに無いことを本人が一番自覚している。ただ心も体も疲れ果てて休息を欲していただけなのだ。
そして6月に休学を決断し、チベット本土・ラサへ旅したことがきっかけで偶然、風の旅行社と出会い(第5話参)、講演活動とエッセー連載が始まった。そのおかげでチベット医学を日本へ紹介していく道が開けたのだから人生とはまさに山あり谷ありの宝探し。もし、休学していなければきっと卒業した2009年の今、いつかは対峙しなくてはならない虚無感とともに途方にくれていたことだろう。あの一年間、京都の薬局でアルバイトをしながら「チベット医学が日本の医療に何の役に立つのか」とひたすら考え抜いたことは決して無駄ではなかったと思っている(第31話参)。
京都の下宿では毎晩のように夢を見た。夢の中で「帰ってこい!」と訴える同級生たちの声は自分自身の心の叫びではなかったか。ダラムサラ在住の日本人からは「道でメンツィカンの先生から『オガワはどうしている?みんな心配していると伝えてくれ』と声を掛けられたよ」とメールが届いた。
「ダラムサラへ帰ろう。大学に戻ろう」
そう決意したとき親友のジグメから手紙が届き(第4話参)、タイミングよくアイキャンプ隊(第25話参)から声を掛けられた。
「小川さん、12月に通訳としてダラムサラへ同行していただけませんか」
現地で高い評価を得ているアイキャンプの一員として訪問する形をとるのは、そのときの意地を張り続けている状況を考えればベストであった。
久しぶりの再会。同級生たちが驚いたのは言うまでもない。そして真っ先に僕を教室へと連れていってくれた。すると生薬のサンプルが並べられた棚と薬草の写真が壁に張り巡らされているではないか。僕たちが大学に訴え続けていた「教室を博物館に」構想が実現していたのだ。
「オガワ、帰って来い。これはお前だけの問題じゃないんだ。みんなのためにも戻るべきなんだ」
このときの声は決して夢の中ではない。友の確かな生の声によって僕の新しい旅『ヒマラヤの宝探し第二章』が始まることになる。ただし学年を一つ落とし 14期生に属し、もう一度、三年生を履修することに加えて、制裁金一万ルピー(約2万5千円。現地では1ヶ月以上の給料に相当する)という厳しい条件つきではあったが・・・。
復学して以来、あんなに嫌だった寮生活が楽しくなった(第10話参)。試験の成績よりも友達とおしゃべりをすることを大切に感じ、夜遅くまで討論をすることが多くなった。新しい同級生・14期生たちは不器用なまでに僕に優しく接してくれた。最終学年5年生のとき、くじ引きで決まったルームメイトはその昔、僕をさんざんいじめてくれた一番苦手な奴だったけれど、そんな彼と四畳しかない小さな部屋で場所の奪い合いをし、時に喧嘩をしながらも仲良く暮らせたことは、ギュースム(第24話参)やヒマラヤ薬草実習と同じくらい大切な試験に合格したことを意味していた。
チベット人の彼らと共にヒマラヤの山々を駆けめぐり、定期試験で真っ向勝負をし、寮生活で苦楽を共にしたことこそが僕にとって一番大切な学びだったと思っている。ヒマラヤに隠されていた本当の宝物、それは、13期、14期生の友達(チベット語でドッポ)ではないだろうか。彼らが素晴らしいアムチとなりますように。そして、こんな日本人がいたことをどうか心の片隅にでも留めておいてほしい。なぜならそれこそが僕が、ダラムサラで10年暮らしチベット医学を学んだことの確かな証(あかし)なのだから。
追記 「ヒマラヤの宝探し」は次々回が最終話です。
体験派医療人マガジン『Lattice(ラティス)』に「医学という名の呪術〜日本人チベット医からのメッセージ〜」と題して寄稿しています。是非、御一読ください。