小川 康の 『ヒマラヤの宝探し 〜チベットの高山植物と薬草たち〜』
2010年3月2日、「ダライ・ラマ法王ティーチングツアー」のお客さんたちを見送ると、僕は早速、昔働いていた病院で研修をはじめた。改めて脈診や尿診を学ぶと感じること、得ることがたくさんある。何事にもいえることだろうが、いったん距離を置いてみてこそ理解できることがある。先生も「英語を話せない日本人患者が来るたびに、こんなときオガワがいてくれたらなあ、と思ってた」と笑いながら話してくれた。そして患者がいなくなると、僕は最近の日本での活動「絵解き講座」を興奮気味に、でもちょっと控えめに報告した。
「そう、そんなにチベット医学に興味を持っている人がいるの。よかったわね。じゃあ、いつかこの病院のスタッフ全員、日本に呼んでよね(笑)。あ、そういえば新しくできたマッサージ・薬浴センターで午後から治療を行うから、オガワも見学に来なさい」
「え、やっと、できたんですか」
と僕は驚きを隠せない。なぜならずっと以前からマッサージ・薬浴センターの必要性が叫ばれ続けながら、チベット人の悠長な性格が原因なのか、一向に実現される見込みがなかったからだ。
僕たちも学生時代は「俺たちには鍼灸の授業もないし、マッサージの実習もない。教典に書いてあるだけで実践しなければ何の意味もないじゃないか。まさに教典にある
『チャ・チェ・メンペー・メンパニ・ゴツォン・メーペー・パオ・ダー/ネー・ギ・ダ・プン・チョム・ミンギュル (意:外科・施術療法を知らない医者は、武器を持たない戦士と同じだ。結局、病という敵を駆逐することができない)』(四部医典論説部第31章)
という教えを実践しているなんて、なんと皮肉なことなんだ」と夜な夜なカビ臭い寮で討論していたものだった。
それがつい先月、オーストリア団体の支援もあり、入院病棟を改築してようやく開設に至ったのである。とはいえ今現在は試行段階で、アムチ(チベット医)が必要と認めたリウマチや腰痛の重病患者のみに限定して施術が行われ、日本のように誰もが体験できるわけではない。
今回の患者は50歳の男性。持病の腰痛が激しいという。まずはアムチが脈診をして身体の状態を確かめてカルテに書き込んでいく。
次に沈香、カルダモン、紅花、ナツメグ、ウコン、生姜、グローブ、などが配合されたチベットマッサージオイルを丁寧に塗りこんでいく。基本的に施術はマッサージの本場、インド・ケララ州で研修を受けたアムチが行っている。したがってテクニックそのものはインド伝統医学に習っている部分はあるものの、最後にチベット特産ツァンパ(青麦の粉)で体中にまぶしてマッサージするあたりはまさにチベット医学の独自性である。
蒸気浴
次は蒸気浴、つまりサウナである。ドゥツィ・ンガ・ルム(甘露の五味薬浴)と呼ばれる特殊な薬草の蒸気でたっぷりと汗をかく。そしてそのまま今度はやはり同じ薬草のお風呂に浸かると、さらに汗がどっと噴出してくる。普段、サウナやお風呂の習慣がないチベット人にとってこれらの施術は劇的な効果をもたらすと予想できる。
天然の温泉に浸かると、打撲熱、毒熱、慢性熱、腫瘍、古傷、アレルギー性赤斑、脈管の病、手足が硬直する病、脊椎湾曲症、痩身病、の病の原因を取り除いてくれる。しかし天然温泉で良くならなければ、甘露五味浴(ヒノキ、ツツジ科の葉、シロヨモギ、麻黄、オンブ)を用いなさい。さらにその蒸気浴は前述と同じ効果を表す。 (四部医典結尾部第24章)
甘露五味浴の中でも注目すべきは、日本では薬事法によって薬浴に使用できない麻黄を用いている点である。麻黄にはエフェドリンという風邪薬や充血除去薬として現代医学でも汎用される成分が含まれている(第5話参)。いやいや順序が逆だ。なぜなら麻黄からエフェドリンが発見され、さらにその発見のきっかけとなったのは中国やチベットなど古来の人々の英知なのだから。いずれにしろ、薬剤師の観点からすると当然、交感神経を刺激して血管が拡張し血流が一気に改善されることは確実である一方で、おいおいそんな強い薬草を用いても大丈夫なのかと不安がよぎる。しかし、ただいたずらに用いているわけではなく、なんと甘露五味浴は5日間、発酵熟成させて作られるのだという。おそらくエフェドリンを含む過激な成分が緩和され、さらにヒノキやヨモギの成分と絡み合い特殊な効能が生み出されるのだろう。さらに施術中はアムチが随時、脈を診て問診しながら容態を確認しているので安心して薬浴に身を任せることができる。
この話をダライ・ラマ法王ティーチングツアーの仕事を終えたマリア・リンチェンさんに何気にしたところ「私もやってみたい。紹介してよ」と強くお願いされた。日本人でありながら普段、温泉やお風呂に浸かることができないだけに、その気持ちが心から理解できる。そこで僕はチベット社会における究極の切り札を用いてメンツィカンにお願いした。
「あのー、実はダライ・ラマ法王の通訳を務めている日本人の女性がおりまして、先日までの法王の説法の通訳で大変、お疲れになられました。それで是非、このセンターで治療を受けたいといっておられるのですが」と。
数日後マリアさんから電話がかかってきた。
「小川君、ありがとう。体の芯からポカポカ温まって、何時間経過してもぜんぜん冷めないのは不思議だね。薬草を何日も熟成させているそうだけど、そんな独特の香りがしてよかったよ。疲れもすっかり取れたし」
マリアさん、これからは風のツアー終了後には必ず甘露五味浴を用意させていただきますので、思う存分、通訳に力を注いでください。
今後、メンツィカンが薬浴、マッサージという新たな“武器”を手にして、どのようにチベット難民医療社会に影響を及ぼしていくのか、興味深く見守っていきたいと思っている。
(補足) 甘露:原語はサンスクリット語のアムリタ。不死の奇跡の水を意味する。
メンツィカンの薬浴センターはまだ試行段階で、コース、料金などは決定されていません。ツアー中に体験をされたい方はお問い合わせください。