朝早くに自宅を出発し、長野市街を抜けて国道406号線に入ると風景は険しい峡谷に激変した。この先に村があるのだろうかと不安がよぎるが、「鬼無里」と記された道路標識を見つけては安堵を繰り返す。9時過ぎにようやく鬼無里の古民家に到着すると講演会スタッフのみなさんが出迎えてくれた。すると、真っ先に、広い縁側で子どもたちが石臼を回して大豆を引いている光景が目に飛び込んできた。庭では家主が斧で薪を割っている。その脇にある釜戸では山で撃ったという猪の鍋が湯気をあげていた。今日の講演会場となる古民家は1840年頃に建てられたという。
講座がはじまるまでまだ1時間近くある。さて、どうしようかなと考えた僕は、ハトムギの採種を縁側ではじめることにした。これは自宅のある別所温泉で栽培しているハトムギで、こんなこともあろうかと、朝、出かける前に収穫したものだ。身近なところでは「爽健美茶」や「十六茶」など健康飲料の主原料というと分かってもらえるだろうか。黒く熟したハトムギの実を一つずつ丁寧に採っていると、さっきまで縁側で遊んでいた3歳と4歳の子どもが興味を示した。
「ねえねえ、なにやってんの?」
「ハトムギを採ってるんだよ。手伝ってくれるかな」
「うん!」
子どもたちと一緒にハトムギを採っていく。すると今度は地元のおばあちゃんとおじいちゃんが声をかけてくれた。
「そりゃあ何だね?」
「ハトムギですよ。きょう、家の畑で刈り取ってきたんです」
「へえー、初めて見たよ」
おじいちゃん、おばあちゃんもハトムギの輪に加わった。
講座の時間が近づくと、地元の若いお母さんたちが集まってきた。
「いっしょにやりませんか?」と僕が声をかける。
そしてハトムギの輪は大きく広がった。気がつくと三世代が集まっていた。種を採り終わったあと、おばあちゃんはハトムギの藁を編んで縄を作ってくれた。子どもたちは大喜びだ。
「戦前、小さい頃はね、毎日、毎日、こうして藁を編んで縄を作っていたんだよ。体がよく覚えているもんだねえ」
作業が終わるとハトムギをさっそく素焼きの焙烙(ほうろく)で焙煎した。香ばしい香りが解放感のある屋内に充満しはじめたころ、「パチッ、パチッ」とポップコーンのようにはじけはじめた。ハトムギが新鮮で水分が豊富なせいだろう。花火のごとき激しさではじけると、子どもたちだけでなく大人たちからも歓声があがった。そして炒ったハトムギを「ポリッ、ポリッ」とみんなで食べながら、いつしか講座ははじまっていったような気がする。
この秋、別所温泉の自宅、つまり「森のくすり塾」の縁側でも、こうしてハトムギの作業をしながらお喋りを楽しんでいた。昨年、引っ越し先を探したとき、家に縁側があることは大事な条件だった。薬草の乾燥や選別の作業をするのに適していることはもちろん、こうして(室内ではなく)外に開かれた場所で簡単な作業をしていると会話が弾んでくるというもの。互いに眼を合わせるわけでもなく、手先の作業に集中しながらのほうが、普段は口にできない悩みごとが口から突いて出たりするのはなぜだろう。そういえば縁側には玄関とは違って「敷居」がない。縁側は家の内側と外側、自分と他人との緩やかな緩衝地帯だからこそ、人の心が触れ合えるのではという仮説を僕は抱いている。
話を鬼無里に戻そう。講演会の話題は焙烙の話題を切っ掛けに次第に時代をさかのぼっていった。戦前、薬草を刻む薬研(やげん)や鉄製の焙烙が武器のために徴収されただけでなく、鬼無里まで伸びるはずだった鉄道の線路まで持っていかれたという話を村の古老は興奮気味に語ってくれた。そして、戦後、鬼無里村の主要産業だった麻の栽培をGHQによって禁止されたとき、村の子どもたちは連名でマッカーサーに陳情の手紙を書いたという。僕はもちろん、村の若い人たちもはじめて耳にする出来事のようで驚いた。そうして縁側を中心に薬草談義は次第に熱を帯び、30人近い参加者のみなさんも思い思いに薬草の思い出を語りだした。
講演は気がつくともうお昼の12時近くになっていた。話を終りにしなくてはいけないようだが、そもそも、これは講演会だったのだろうかと不思議な感覚になってきた。題目にあったであろうチベットの話をした記憶はあまりない。朝が早かったせいで頭がぼんやりしていたせいもある。縁側の日だまりでハトムギを食べながら、ときにハトムギの殻が喉に引っかかって噎せながら、おじいちゃん、おばあちゃんと薬草にまつわる昔話をしたような記憶だけは残っている。鬼無里の風景にみんなの物語が溶け込んで一体化したような感覚。子どもたちはハトムギの藁を振りまわしながら走っていた。
いいひとときだったなあ……。
まるで自分が聴衆のひとりとして講演会を楽しんだような満足感に浸りつつ、縁側に並んで手を振るみなさんに「ありがとうございました」と運転席から手を振り返し、鬼無里を後にした。
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