父の後を追うように(第162話)、2015年、実家の柿の木が突然、枯れはじめた。おおよそ100年前から小川家で大切にされてきた樹木である。インターネットで調べたところウドンコ病ではないかと推察できたが、同時に、もしかして自分の愛情不足にも一因があるのではと考え込んでしまった。なにしろ柿の実と自作の柿の葉寿司が大好きだった父と比べると柿の木への想いはかなり薄い。僕は小さい頃から柿は嫌いではないが、好んで食べることはなく、先端がYの字の長い枝を操って柿を採る作業だけは大好きだった。インド・ダラムサラでは秋のごく短い期間だけバザールに並ぶが、異国の地で出会ってさえ「懐かしいなあ」と一瞥する以外、購入することはなかった。自作で柿の葉茶を作っていたこともあったが、そちらの興味も薄れつつある。ちなみにチベット語で柿はシントク・アマ(果実の母)と素晴らしい名前を冠っているけれど、チベット社会ではそれほど馴染みのある果物ではなく、四部医典には掲載されていない。
そしてここ信州、少なくとも上田近辺においてほとんどの柿は食べられずに放置されており、晩秋になると落下した柿の実で道がグチャグチャになってしまう。柿への愛情が薄いのは僕だけではないことがわかり、少しほっとすることができた。甘味が貴重だった昭和40年ころまで柿は甘味の主役であり、だからこそ各家庭に柿の木が植えられた。いざというときの困窮食としての期待もあった。しかし飽食の現代に至ってすっかり脇役以下になってしまったようだ。山菜だ、薬草だ、キノコだというけれど、まずは身近な柿の実に注目すべきではないかと頭では理解するのだが、とはいえ柿に手が伸びることはない。
そこで、柿渋作りに挑戦してみることにした。なぜなら薬房を建設する際に、市販の柿渋を防腐剤としてたくさん用いたからである。今後も定期的に柿渋を塗ることで壁板の腐食を防ぎ、趣のある色合いの建築物に成長していくことが期待できる。まず、9月上旬、色づく前の青い柿を屋根に上って採取し一つずつ金槌でひたすら潰した。けっこう手間がかかる。次に大口の瓶に入れて水で浸す。すると化学変化がはじまりブクブクと泡が出て数日後には独特の臭さが漂いはじめた。数カ月後、熟成した液を濾したら柿渋の出来上がり……のはずであるが、10月11日現在は熟成中である。柿渋の本質はタンニンという成分。タンニンが重合し大きな化合物になるとポリフェノールと呼ばれる。タンニンは植物が外敵から身を守るために作りだす成分で、多かれ少なかれほとんどの草木にタンニンは含まれている。そして石油などから大量合成される安価で強力な防腐剤が氾濫する現代において柿渋は柿の実と同じように忘れ去られようとしている。そんな問題意識を抱いているとき、タイミングよく「たんころりん」という妖怪話に出会った。
昔、仙台の二十人町の旧家に、柿の木が五、六本あり、家は年寄りだけなので人出がなく、柿の木に柿がなってもそのままにしておいた。柿の木は、実をならしても誰もとってくれず、面白くない。実をささえる手(枝)もだるくてしかたがない。時たま、カラスがつつく位で解決のしかたがない。こういう時に、柿の木は化ける。 後略
なんでも柿の実を採らずにそのままにしておくと「たんころりん」という大入道に化けて町をさまようらしい(注)。道が柿の実でビチョビチョしているのは「たんころりん」が歩いた跡だというから面白い。柿の実を放置することに対する戒めは現代にはじまったことではなく、昔からあったのだと知ることでさらに少し肩の荷が軽くなった。
「柿を大切に」とキャンペーンを派手に打つ必要もないけれど、いざというとき非常食や防腐剤になると思って、気を向ける程度の関心は必要ではないかと思うのだ。急に必要とされなくなったら怒って「たんころりん」に化けるならまだしも、寂しさのあまり実家の柿の木のように自ら枯れていくかもしれない。いや、待てよ。いっそのこと「秋、たんころりんに出会える街」とキャンペーンをうってみてはどうだろうか。
みなさん、たんころりんに会いに、上田にいらしてください。お待ちしています!
追記
実家の柿の木はかろうじて復活し、葉をつけはじめました。
参考文献
『水木しげるの妖怪辞典』(水木しげる 東京堂出版 1981)
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