現役の猟師であること、つまりいまも生死をかけた現場にいることがAさんの佇まいから伝わってきた。お歳をうかがうのを忘れてしまったがたぶん75歳くらいではなかろうか。
信州の山深い里にAさんの御自宅はある。20歳から鉄砲を撃ちはじめ、いままで何頭の熊を仕留めたか数えきれない。熊に襲われ絶体絶命の冒険話はいくつもある。でも左目の上にある大きな傷は熊ではなくカモシカからの反撃を受けたときのものだという。熊を仕留めるとすぐに解体し、まずは貴重な胆嚢を傷つけないように取り出す。胆汁が体内に廻ってしまうと熊肉が苦くなって不味くなるためだ。取り出すとすぐに胆嚢の口を紐で縛り、専用の板で薄くはさんで乾燥に入る。かつては熊胆(ゆうたん)がとれると村中で分け合い貴重な薬として重宝した。もちろん熊胆は外貨を獲得するためにも役だち、かつて1gが3000円で取引された時代もあったという。
近所の人が右腕を火傷したとき、すぐに熊胆を水に溶かして塗りはじめた。ところが半分塗ったところで「バカ、そんなもので治るか」と熊胆の効力を信じない友人に止められるとすぐに病院に連れて行かれた。結果、熊胆を塗った半分だけが速く、しかもまったく跡が残らずに治癒した。打撲で爪の中が内出血したときに塗ったところ、すぐに綺麗に治ってしまった。飼っていた鶏がぐったりとしていたときに熊胆の溶かした液を口から無理やり入れてやると、あっという間に元気になった。猟に出る日、特に遠くの山へ行くときは熊胆を舐めてからいくと不思議と疲れないと語るが、強心作用、新陳代謝促進作用に極めて優れていることが推察できる。ただ「もう末期癌になった人には効かなかった」という冷静な補足は、いままでの「効いた」という発言の信憑性、客観性をより高めてくれた。
そうしてAさんの語りが一段落すると、ようやく熊胆を見せてくれた。大小あわせて20個はあるだろうか。博物館でガラスケース越しに見物したことがあるだけで、直接目にして手に取るのははじめてのことになる。許可をもらってからほんの少しだけ舐めてみた。予想したほど苦くはなく、そして少し甘い。獣の匂いがプンプンする。僕は日本、チベットにおいて数多くの薬草、生薬、毒草ですら口にしてきたが、これは別格だ。最高に「効く」薬であることが伝わってくる。
このときダワ博士(第214話)のヒマラヤ越えの話を思い出した。1988年、チベット薬草学の権威であるダワ先生はチベットからヒマラヤを越えての亡命を決行するにあたって、選んだ唯一の携行薬がたった一つの麝香だった(注1)。雪目になったら眼に塗ってもいいし、傷にも胃にも効く万能薬だという。熊と麝香鹿との違いはあれど、やはり動物性の薬がもつ力は植物性を凌駕する。まさに生命が凝縮されている。ちなみにチベット医学で熊胆はドム(熊)ティ(胆嚢)、麝香はラツィという。どちらも、かつては珍重されたがいまは中国の法律によって狩猟が禁止されている(注)。そのため代用品として熊胆にはサフラン、麝香には白ヨモギ(第27話)を用いている。
日本においても現在は野生動物保護の観点から熊を勝手に撃つことは禁止されている。罠にかかった熊のなかで営林署から許可が下りた熊を銃で撃ち、その胆嚢をいただくことができる。しかし、かつて薬が日本の農村に行きわたらなかった時代、それはつい40年ほど前までなのだが、猟師が採ってくる熊胆は民衆にとって救いの薬だった。その薬を採るために猟師は命がけで山に行った。熊の脂もまた火傷や皮膚の乾燥に塗ったという。もしも、石油の供給が途絶えて現代薬の製造ができなくなったなら(注2)どんな薬草(たとえばキハダやセンブリやドクダミ)を大量に採取するよりも、熊には本当に申し訳ないが、たった一つの熊胆から得られる効力に勝るものはないだろう。しかし、その技は途絶えようとしている。
とはいえ便利な世の中になったもので、熊胆の有効成分ウルソデオキシコール酸を工業的に合成することに1962年に成功した(注3)。さらに富山大学の研究により牛胆も熊胆とほぼ同等の効果があると証明された。牛胆ならば大自然と対峙せずとも屠殺場でなんなく手に入る。もちろん、そのほうが熊にとっても人間にとっても好都合なのは間違いない。ただ、どんな便利な社会になったとしても、熊胆の歴史と、それを採取する猟師の人たちの営みを忘れずに伝えていきたいものである。医学の歴史書にはけっして記されないAさんのような猟師たちこそが長年に渡って日本人の健康を“命がけで”支えてきたのだから。
注1
雄のジャコウジカの腹部にある香嚢(ジャコウ腺)から得られる分泌物を乾燥した香料、生薬
注2
現代薬の多くは石油から精製された炭化水素を出発原料としている。
注3
もちろん天然の熊胆はウルソデオキシコール酸の他にも無数の成分を含んでおり、それは(合成成分にはない)複雑かつ予測不可能の効果をもたらしてくれる。
関連図書 宮沢賢治『なめとこ山の熊』(古今社、2003年)
なめとこ山の麓に小十郎という熊撃ちの名人がいた。小十郎には家族を養えるほどの畑はなく、山林は政府のものとなって伐採が禁じられ、里では職にありつけず、熊を撃つしか家族を養う道がなかった。小十郎は、一家七人を養うために、熊を撃ちまくったが、本当は熊に申し訳ない気持ちでいっぱいであった。彼は熊撃ちの時は自信に満ちた名人だったが、殺した熊に言い訳を聞かせ、次に生まれる時には熊になるなよと熊に語りかける・・・・・・
小川さん情報
【イベント】
企画中
【講座】
【旅行】
ラダック・ツアー情報
聖山ゴンポ・ランジュンに大接近!
終了ツアー 【企画中】聖地ザンスカール探訪と断崖の僧院プクタル・ハイキング10日間