「狼が人間を襲って食べたという確かな記録はない」という記述を見つけてページをめくる手が止まった(注1)。すぐさま15年前の記憶が甦る。
2001年8月、メンツィカン入学前の僕はインド北部の秘境ラダックを訪れ。先輩のタシと一緒に大冒険に出かけた(第137話)。その途中、犬のような遠吠えが聞こえた。遥か遠く、500mくらいだろうか、犬のような動物の影が二匹見え隠れしている。「あれはなに?」と無邪気に尋ねる僕に「ああ、狼(チベット語でチャンキー)さ」と素っ気なく答えるタシ。一瞬にして身体が硬直した。ゾワっとした冷気が身体を走る。いまここで襲われるとは思わなかったが、これから狼の領域に足を踏み入れることに躊躇が生じた。「え……え……襲ってこないのか?」と動揺を隠せない僕。「狼は人間を襲わないよ」と面倒くさそうに答えるタシ。「羊やゾを襲うことは?」と質問を続ける僕に「うーん、ないことはないけど、あんまりないな」とこれ以上、迷信深い日本人との会話を続けたくなさそうなタシ。仕方なく「そ、そうか」と納得したふりをしたけれど、やっぱりタシの言葉を心から信じていなかったことを15年後に自覚することになる。狼は人間を襲わない。2017年、46歳のいまになってようやく確信することができた。
「狼は怖い」。このイメージが根付いた理由を振り返ると少なくとも僕の場合はグリム童話の「赤ずきんちゃん」、さらに「三匹の子豚」が思い当たる。満月の夜に変身する狼男もそういえばそうだ。いずれにせよ狼は人間を襲うものと信じ込んでいた。どうやら狼が悪役に仕立て上げられたのは「赤ずきんちゃん」が生まれた中世ヨーロッパにまで遡らなくてはならない。その背景にはキリスト教の存在があるようだ。そして日本では西洋の影響を受けた明治政府によって日本オオカミは絶滅に追いやられるのだが、詳しくはインターネットや書籍で情報が得られるので是非、調べてみてほしい。そういえば古来、日本では狼を神様として崇める風習があった以外、悪者として語られてはいなかった(注2)。そしていま、僕の中で迷信が一瞬にして解けた理由は15年前のタシの言葉が伏線にあったことが一つ、もう一つは現実的に狼の必要性に直面していたことにある。
森のくすり塾が位置する野倉集落は、ほかの山間地と同じように鹿の食害が深刻で、猟師のSさんが罠や銃で殺すことでかろうじて鹿と人間との均衡を保っている。昨年は幸いにして僕たちの畑のハトムギは食べられなかったが、今年は大丈夫という保証はないらしい。だからといって畑の周囲を堅固な柵で囲ってしまうのも、景観上なんとなく気が進まない。冗談半分、本気半分で「狼を森に放ちたい」という会話が集落内でされることがよくある。狼が絶滅したことにより生態系のバランスが崩れて鹿が激増したという説があるからだ(注3)。そうした背景もあって自分に直接、関わることとして狼の存在を考えていたのである。もしも集落でただ一人の猟師Sさんが引退すれば、野倉は鹿天国になり畑は荒らされるのは眼に見えている。
狼
とはいえ、ここまで狼を徹底的に壊滅してしまったものは仕方がない。狼は犬を襲うらしいので、もし日本に復活したら愛犬団体から激しいクレームがくるだろう。ただ、狼は人を襲わない。家畜もよほど食料に困らなければ襲わない(注4)。狼は人間と共存できる動物であることをもっと強く啓蒙してもいいのではと思うのだ。
嫌だった人が本当はいい人だったとわかったとき、かえって好意を持つことがないだろうか。しかも誤解の期間が長ければ長いほど、贖罪の気持ちが手伝って愛おしさが強まるというものだ。だから長年に渡って誤解していたからこそ、狼には心から「すいません」と謝りたい。そして、あのとき大自然のなかで野生の狼と対峙し「襲われるかも」という緊張感を抱けた稀有な体験に感動がわき起こってきた。ラダックに「赤ずきんちゃん」の話が伝わっていなくてよかった。いや、仮に伝わっていたとしても彼らならば、ただの寓話だと済ませることができるだろう。自然と乖離し、動物園やメディアを通してしか動植物と触れあえない日本人にとって、寓話が与える影響は、寓話作者の予想を超えて大きい。だから「赤ずきんちゃん」の絵本の巻末には「ほんとうはオオカミはとてもあたまがよくて、やさしい動物です。人間をたべません」と必ず記してほしい。
注1
よくオオカミは家畜のヒツジを食ったり、人間を襲うといわれますが、じつはめったになくて、実際はネズミを食っている。健康な人間を襲って食ったという確実な証拠はないそうです。弱って死にかけた人を襲ったという話はあるらしいのですが。
『環境と文明の世界史』(石弘之、安田喜憲、湯浅赳男 洋泉社 2001 p178)
注2
たとえば秩父の三峯神社、飯館村の山津見神社は狼が守り神として奉られている。
注3
たとえば凍結防止のために道に撒く塩化カルシウムを鹿が舐めて塩分補給が可能なことから、鹿が越冬しやすくなったという説がある。
注4
ただし狂犬病に罹った狼や、犬と交配した雑種が人や家畜を襲うことがあったらしい。
参考
八世紀に編纂された『四部医典』に「狼の胃は温もりを生み、消化不良を癒す。狼の舌は舌の腫れものを治す(釈義部第20章)」とあるが実践された記録はない。
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