むかし、むかし、チベット王のお母様が重い病気にかかってしまいました。ヒマラヤの薬草を用いても一向によくなりません。ある日、王様は夢を見ました。
「遠く東の国、太陽(チベット語でニ)のやってくる(オン)国、ニオン国はたいそう緑が豊かな国じゃ。そこにお前の母の病を治す薬草がある。今、その国にはまだ誰も住んでおらぬ。行くがよい」
王様はチベット族の中で一番優秀な医者に若い従者たちをつけてこの東の国へと遣わしました。一行はひたすら太陽の登る方向に向かって歩き続けました。初めて出会う海の大きさに感動し、その海を船で渡り、山を越えついに夢の国へとたどり着いたのです。穏やかな気候、一年中豊かな緑、ヒマラヤでは見たことのない薬草の数々。彼らはたちまちこの国が気に入り、このまま残って暮らすことに決めましたとさ。 (チベット医学童話 タナトゥクより)
2002年、入学して間もなく、メンツィカンの製薬工場職員ダワさんからこの伝説を教えてもらった。なんと、日本(ニホン)の名称の由来はチベット語のニ・オン(太陽がやってくる)にあり、日本人の祖先はチベット人だというではないか。そういえば2は「ニ」、4は「シ」、9は「グ」、10は「チュウ」と数字が似ている。そういえばチベット人は総じてとっても親日家である。
この伝説の真偽はさておき、近現代史においてチベット社会における日本のイメージが形作られたのは1904年の日露戦争にさかのぼるようだ。当時、チベットにとって脅威の存在であったロシアに日本が勝利したことで日本へのあこがれが生まれたのだ。それはチベット国旗が旭日旗を基にデザインされたことからもわかる。ダライラマ十三世(1870~1933年)はチベット軍事顧問に矢島保次郎を任命し、また、仏教を学ぶ留学生の多田等観を寵愛した。多田は著書のなかで「チベット人は宗教的関係、人種的関係、言葉の関係、あらゆる関係が基になって日本に対して特別の親しみをもっておる」と語っている。それから40年後、第二次世界大戦の敗北をラサで知った木村肥佐生はやはり著書のなかで1945年当時の様子を「チベット人の日本びいきはたいへんなもので、中国人の戦勝行列に石を投げるものがいた」と多田と同じように語っている。ダライラマ十四世も親日家で知られ、法王がインドに亡命後、最初の海外訪問先は同じ仏教国の日本であった(1963年)。1999年以降は毎年のように来日され、近年は一年に二度来日されている。そうした歴史の積み重ねによって、多くのチベット人は日本人に対し、同じ仏教国であることに親近感を、そして仏教国でありながらかつては軍事大国、現在は経済大国であるとして敬意を抱いてくれている。その意味では仏教を日本に導入した聖徳太子と、バルチック艦隊を破った東郷平八郎に感謝しなくてはならない。「いやいや、われわれ日本人は仏教徒とはいえないでしょう」という謙虚な意見があるかもしれないが、大切なのは歴史の流れのなかで、先方が日本を仏教国だと思ってくれている現状である。
異文化のなかに暮らしていると個人の動機、個人の思想うんぬんよりも、それまでの歴史のなかで育まれてきた「日本人へのイメージ」という外部環境に身を委ねざるを得ないときがある。だんだんと個人の頑張りが些細なことのように思えてきた。幸いにしてチベットも、そしてインドも親日なおかげで僕は10年間、嫌な思いをほとんどすることがなかった。日本人であるだけで、チベット社会では100年分のアドバンテージがあるといえる。そうしてちょっとだけ肩の力抜いて歴史の流れに身を任せるとチベット人たちと波長が合うようになってきた。歴史の連続性を身体で感じ歴史の流れに心を任せてみる。それが「歴史を学び、知り、尊重する」ということの本質なのではと思い当たった。
さて、冒頭の伝説の真偽の件であるが、実際には、秦の始皇帝の時代の徐福伝説をモチーフにして20世紀初頭にチベット社会で誰かしらが語りはじめたといわれている。残念ながら、チベット人が日本人の祖先であるという説は説得力が弱いようだ。でも、まあいいではないか。チベット人と日本人が仲がいいのは間違いのない事実なのだから。チベット人に出会ったら、この伝説を知っているかどうか尋ねてみてください。
参考 『西蔵漂泊』(山と渓谷社 江本嘉信 1993)
『チベット医学童話 タナトゥク』(ほんの木出版 小川康 2002)
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