薬剤師とチベット医、チベット医と薬剤師。どちらの肩書きを先に記すかは、いつも悩まされる。本エッセーの読者からすると、当然、チベット医を重要視されるだろうが、意外と僕は薬剤師にも同じほどに誇りをもっている。なにしろ、チベット医学の学びが10年ならば、薬剤師は小学校に入学し22歳で国家試験に合格するまで、実に16年もの年月を要しているのだから。
とはいえ、高校3年生のときに薬学部を目指した動機は化学が得意だったとことと、国家資格が得られるという安定志向によるもので、特に高邁な理想を抱いてではなかった。大学入学後、薬学部3年生ではいよいよ薬学実験がはじまった。記念すべき最初の実験は黄檗からベルベリンの抽出だったのを覚えている。そして4年生になってあこがれの有機化学合成の研究室に配属された。一人一人に実験台と机が与えられると気分は一人前の研究者だ。研究テーマは「不斉(ふせい)合成(注1)」を教授から与えられた。
研究室の一日は朝8時半のヘキサン汲みからはじまる。ヘキサンとはいわゆる油の一種で、有機化学合成では水よりも水のように用いられる有機溶剤である。セメンダインの香りを想像してほしい。研究室でいちばん下っ端の4年生は当番制でヘキサンを一階のタンクから汲み取り、5階の研究室まで台車を使って運ばなくてはならない。9時ころ、教授や博士、修士の先輩方が集まっていよいよ実験がはじまる。実験は全体で見ればチームプレーだが、実験作業は個人プレーになる。僕は主にメントールというミントの成分や、カンファ―といって樟脳の主成分、ときにはバニリンといってバニラの成分を出発原料に用いる合成を行っていた。ケミカルというと無機質で冷たいイメージが先行しているが、有機化学合成に用いる原料で自然に由来しないものはほとんどない。ときに悪者にされる石油だって、もとを辿れば古代の植物や動物の化石だといわれているではないか。つまり、石油から作られる現代薬は「ジュラ紀の時代の草木を1億年以上も地底で熟成した炭素原料から作られたビンテージ。イラク産」と捉えることもできる。
その石油から得られた炭素と炭素をつなげる化学反応は時間もかかるし、それを分離精製し、さらに構造決定するのも一苦労。結局、1年間を通して論文として残せる成果なんてほんの3,4つの化学反応だけしかない。たとえば「チベット薬を実験で検証すればいい」「エビデンス(統計学的な薬効の証明)が必要だ」なんてよく言われるが、実験し立証するまでの過程がいかに大変かを知っているからこそ、僕は「そうですね」とは安易に答えられないのだ。
昼や夜は声を掛け合ってみんなで学食へ行った。夕食後には腹ごなしにと、卓球大会がはじまる。夜、ときに、実験室で宴会がはじまっても心配無用。冷えていないビールを液体窒素(氷点下273度)に浸せば、一瞬にして飲みごろになるのは薬学部ならではの醍醐味だ。夜は教授より先に帰ってはいけないという不文律があったため、実験を終えるのは夜の9時か10時ころになる。そのほか、研究室対抗の野球大会や駅伝大会、芋煮会、スキー合宿があったのはいい思い出である。
医学部の日常は朝ドラ『梅ちゃん先生』をはじめとして色んなドラマ、漫画、小説で紹介されている。それに対し薬学部の日常はほとんど紹介されたことがない。薬学部の日常を知ってもらえれば、ケミカルに対する一方的な嫌悪感を払しょくすることができるのではないか。ケミカルも元をたどれば自然に由来するものであり、人間味あふれる現場で創られていることを知ってほしい。日常の営みを紹介し、身近に感じてもらうこと、それはあらゆる分野における相互理解の基本ではないだろうか。
僕が薬学部で学んだ専門知識は、「薬とは何か」について深く考える基礎として、いま「森のくすり塾」で役だってくれている。炭素と酸素と水素と窒素レベル、さらには分子内の電子の動態レベルから薬の働きを推察できるようになると、薬と薬草はもっともっと楽しくなる。だから、僕は最近、チベット医学の話題とともに電子、原子、分子レベルでの薬の解説を行っている。なかにはベンゼン環(亀の甲)を見るなり「うわっ」と引いてしまう参加者もいるけれど、ちょっとだけ我慢して、僕の化学講話に耳を傾けていてほしい。もともと、「有機的な・オーガニック」とは炭素・炭素結合によって生み出される多様性のことであり、アロマ(芳香)とはベンゼン環を含むフェノール基のことだと知ってほしい。僕がいまの日本社会に貢献できること。それは、大自然に根差すチベット医学の知識を伝えることとともに、現代化学を大自然と関連させて分かりやすく解説することだと考えている。
今度、いっしょにケミカルとナチュラルを学びませんか。
注1
化学物質には右手と左手の関係のように似ているが決して重なり合わない鏡像体が存在している。そして片方が有効成分として機能しても、もう片方が激しい副作用で害を及ぼすことがある。サリドマイド事件でこの性質は有名になった。その二つを効率的に分別しながら合成する研究である。
小川さんブログ チベット、薬草の旅
小川さん情報
【イベント】
企画中
【講座】
【旅行】
ラダック・ツアー情報
聖山ゴンポ・ランジュンに大接近!
終了ツアー 【企画中】聖地ザンスカール探訪と断崖の僧院プクタル・ハイキング10日間