東京、豊島区にトキワ荘というアパートがあり、1954年から60年にかけて藤子不二雄、赤塚不二夫、石森章太郎、寺田ヒロオなど売り出し中の漫画家たちが数多く住んでいた。同じ夢を抱いたもの同士が、みんなで漫画や映画について語り合い、ときには仕事を助け合い、貧乏生活を笑い飛ばした。そしてそんな若きエネルギーが後の漫画界を発展させていくことになる。この質素なアパートで繰り広げられた青春ドラマは藤子藤二雄Aの「まんが道(みち)」や、石森章太郎の「トキワ荘の青春」で活き活きと語られており、当時、高校生だった僕は夢中になって読んでいたものだ。なにしろ藤子藤二雄Aさんは高校の大先輩にあたり、「まんが道」に登場する木造の高岡高校校舎や古城公園、高岡大仏はまさにそのまま、僕の高校時代の舞台だったのだ。この時代に生まれたかった。こんな熱い息吹の中で生きてみたい。1980年代バブルへの階段を駆け上がっていく華やかな時代に、そんな時代遅れの夢を抱くこと自体、もともと少し変わった若者だったのかもしれない。そして、その願いは時を超えて15年後にメンツィカン入寮によって叶えられることになるから、願いの波動とは、ブーメランのような楕円軌道を描いているのではないかという物理学的な仮説を僕は立てている。
果たせるかな、メンツィカン寮(チベット語でニェルカン)の生活レベルや貧乏具合が1950年代に類似している。なによりもチベット医学を目指し、名医になるんだという同じ目標を抱く20代(僕だけ30代)の学生たちが集まり、5年間に渡って共同生活した。お互いにライバルでありながら、お互いに助け合い、夜はどこかの部屋や廊下で熱い論争が始まったことも、まるでトキワ荘そのものである。テレビなんてないから、やることといえば勉強か、お喋りか洗濯くらいしかない。あ、そうそう歌もよく歌ったな。ちょっとした冗談にも笑い転げた。みんなハングリー精神に満ち溢れていた。ハングリー、そう、チベット医学の最大の特徴は、このハングリーな集団生活から産み出される団結力だと僕は思っている。アムチを目指して学ぶ青年たちの無垢なまでの熱意「アムチ道」がメンツィカン寮にある。
2012年10月、国際アムチ会議に出席するためメンツィカンを訪問したときのこと。チュパ(チベット伝統服)を着た西洋人の女性が、僕のもとに駆け寄ってきた。なんでも今年、メンツィカンに入学した1年生だという。彼女はアメリカの大学で博士を取得した才女で、昨年、入学試験(第15話)を受験し、2001年次の僕を上回る高得点で堂々と合格している(悔しい……)。定期試験でもチベット人に負けない成績を修めている(やるな……)。しかし、一つだけ気になることがあった。当初は女子寮で共同生活をしていたものの、2カ月で耐えられなくなり今はメンツィカンの隣にあるゲストハウスで特別に一人暮らしをしているというのだ。プライベートを大切にする欧米社会で育った彼女には無理もないことだろう。「だって、狭い部屋に四人も押し込められて、夜はお喋りばかりで勉強なんてできやしないんです」。そう嘆く彼女のチベット語はとても流暢でメンツィカンの学生に相応しい。でも、あえて僕は先輩風を吹かせながら、こう諭した。「もちろん、卒業したから言えることだけど……四部医典の暗誦や薬草実習よりも、寮生活から学んだことが一番、大きいんだ。外国人だからこそ寮に戻るべきだと僕は思う」。彼女は僕の言葉を頭から否定するのではなく、笑顔を含む複雑な表情で耳を傾けてくれていた。
四部医典の暗誦、ヒマラヤ薬草実習、寮生活、この三つの中で、日本人の僕にとってもっとも過酷だったものはと問われれば、迷わずに寮生活と答える。でもだからこそ、日本の医療社会にとって有益なヒントが、薬草でも聖典でもなく、メンツィカンの寮生活にこそ秘められている可能性があるとはいえないだろうか。
もしも、チベット医学を目指す若者がいたら、まずは「まんが道」と「トキワ荘の青春」を読んで共同生活に憧れを抱いてほしい。何にも未来の保証はなくてハングリーだけれど、今をワクワク生きる素敵な「アムチ道」が君を待っているよ……なんて、卒業したからいえることかな。やっぱり辛かった……(涙)。
参考
メンツィカンの入学試験は、2016年の5月に開催されます。現在は正式に外国人枠が設けられていますが、試験問題はチベット人と同じです。
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