第175回 ハクサム ~ゆとりの心~

息絶え絶えに暗誦中の筆者息絶え絶えに暗誦中の筆者



ゆとりの心が大切。そんなあたりまえの教訓が身に沁みたのは、他でもない、風のツアーガイドの仕事が切っ掛けだった。

風の旅行社と正式なお付き合いがはじまったのは2004年からだが(第5話)、2001年の4月末に一度だけダラムサラのツアーガイドを特別に引き受けたことがある。仕事の依頼がメールで届いたのは1カ月前のこと。引き受けるかどうか迷ってしまった。なにしろ5月2日からはじまるメンツィカン入学試験(第15話)の直前に、3日間もつぶれてしまうことになる。それでも「まあ、不合格でもともとだ」という遊び心があったことと、当時からヒマラヤ薬草ツアーの企画(チベット医になることよりも大切な目標だった)を夢みていたこともあり、その足掛かりとするべく引き受けることにした。

とはいえ、まったくのツアーガイド初心者である。ノルブリンカ宮殿ではチベット語で書かれた解説版を翻訳しながら必死に案内していたものだった。「えーっと、ちょっと待ってくださいね。こっちの壁に描かれた黄色い仏様はチベット語でリンチェン・チュンネと書いてありますが、日本語はわかりません。こっちの西側の壁の赤い仏様はオーパクメーですから、阿弥陀如来…かな? 反対側の青い仏様は阿閦如来で、北側の緑色の仏様はミキューパですから、日本語でなんでしょう? こちらの白い仏様はナンバル・ナンゼーと書いてあります。大日如来だったような気がします」。勉強しながらのなんとも頼りない案内だったが、3日後からはじまる試験のことを忘れてお客様に真心をもって向かいあい、満足して帰路についていただいたことを風の旅行社のためにも補足しておきたい。

そして入学試験当日。「金剛界五仏の御名前と御身体の色と鎮座されている方角を答えなさい。(配点10点)」という問題に対峙したとき、びっくりしたというよりも「きっと僕は合格してしまうんだろうなあ」と、まるで人ごとのような確信を得たものだった。結果的に総合得点が516点で合格ラインの500点にギリギリだったことを考えると、風のガイドを引き受けたおかげで合格し、そして、今の僕があるといえる。

それから時は過ぎた6年半後の2007年11月、ギュースム(第24話)というまたしても無謀な挑戦をすることになった。しかし、よりによって、(今回もまた)直前に在校生たちが卒業パーティーを開催してくれるのには困ってしまった。とりあえず出席はしたものの、心ここにあらず。ギュースムに挑戦する7人以外の同級生たちは大いに盛り上がっているが、僕の笑顔はひきつったままだった(注2)。しばらくすると、僕はさりげなく会場をぬけだし、寮にもどって暗誦の練習をはじめた。僕には遊んでいる暇なんてないのだ。

在校生によるパーティー在校生によるパーティー



夜の10時ころにパーティーが終わり、そのまま寮内で無礼講の宴会が始まった。「おいおい、ちょっとは俺たちにも気を遣ってくれよな」と思わずにはいられない。ところが「俺たち」という表現が正しくないことに気がついた。なんと、ギュースムに挑むミクマル、サムドゥブ、クンゴも宴会に参加しているではないか。しかし、僕は一人、自分の部屋に引きこもったまま『四部医典』と対峙し続けていた。そして、ギュースム当日。暗誦が3時間を過ぎて突如、意識が朦朧となったとき、入学試験以来、7年間ずっと肌に感じ続けていた「チベット医学の追い風」がピタリと止んだ……、僕は暗誦しながらそう感じていた。そして、息絶え絶えに、ありのままの小川康として不格好に暗誦をなんとか終えたのである。

あのとき、僕はギュースムの達成に固執したことで周りが見えなくなり、自分の名誉しか考えられなくなっていた。涼しい顔でギュースムを完璧に暗誦したサムドゥブ、クンゴ、ミクマルの顔を見ているうちに、その思いが強くなりかすかな後悔の念に襲われた。彼らが直前の宴会に参加してみんなと卒業の喜びをわかちあったように、僕も参加して楽しめばよかった。そうすればチベット医学の追い風が最後まで吹いてくれたような気がする。

日本語で真心はチベット語でハクサムという単語に当たる。ずっと、どうしてハク(余剰)サム(心)なのかと語源的に不思議に思っていたのだが、いま、なんとなくわかる気がする。余裕を失った心にチベットの仏様は手を差し伸べてくれないのだろう。直前で切羽詰まったときほど余裕の心で他者に「ハクサム=真心」を。実は、ギュースム以来、帰国後のいまもけっこう心がけていることです。


阿閦如来

宝生如来

阿弥陀如来

不空成就如来

大日如来


注1
金剛界五仏。東に青色の阿閦如来、南に黄色の宝生如来、西に赤色の阿弥陀如来、北に緑色の不空成就如来、中央に白色の大日如来。入学試験の解答はもちろんチベット語なので、日本名が分からなくても答えることができた。
『四部医典』は、阿弥陀如来の発問に対し、根本部は阿閦如来、釈義部は大日如来、秘訣部は宝上如来、結尾部は不空成就如来によって説かれたとされることから、チベット医学と深い関わりがある。

注2
1カ月に及ぶ卒業筆記試験を終えたあとに、ギュースムが開催される。したがってギュースムに挑戦しないほとんどの学生はこの時点で卒業の解放感に浸っている。


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