メンツィカン学園祭の出し物でツィク・ギャをやることになり、僕はメンバーに立候補した。ツィク(言葉)ギャ(掛ける)=言葉を掛ける、すなわち日本でいう歌垣にあたる。といってもピンと来る日本人は少ないだろう。つまりは男女の歌の交換であり、小さい頃に遊んだ「はないちもんめ」のようなものというとピンときてくれるだろうか。和歌を交わすことで男女の想いを伝えあった平安時代の歴史を思い出してほしい。
とはいえ、近代化の波が押し寄せているチベット社会でも、歌垣は日本同様に歴史教科書のなかに記されそうになっているが、それでもまだ、細々と現役で息づいている。学園祭の檀上では、男女5人が向かい合い、たがいにリズムにのせて相手を称えつつも、ときに揶揄する言葉をかけていった。ほんとうは即興で歌いあいたいところだが、当時、流行していた歌垣に少しだけ自分たちでアレンジしたものを披露することにした。もともと歌が大好きな僕は(第7話)誰よりもノリノリだったのはいうまでもないこと。おかげで10年たった2014年のいまでも男女のパートの両方を歌うことができるほどである。
男 そちらに視線を向けたら、お嬢さん こちらに視線を返してくれたよね お嬢さん
お目眼の瞼の下でね、お嬢さん 私たちの縁の紐が結ばれたんだよ お嬢さん
女 その帽子の下から お兄さん 素敵な瞼が見えますよ お兄さん
そのお目眼は私に向けられたのね お兄さん。ずっと見ていてくださいね お兄さん
男 (ゆっくりとした口調で)
たくさんの人が見ている中で、あんまり仲良くしてはいけないよ。
心の中だけで想って、目だけで分かり合えればいいじゃないか。
女 (ゆっくりとした口調で)
お兄さん、あなたが好き好き。仏教も大好き。私はこの人生のうちに悟りを得るのよ。
男 お嬢さんの干支は申年だね お嬢さん 猿みたいにすぐに手を伸ばしちゃだめだよ お嬢さん
私の干支は寅年だよ お嬢さん。 よーく見定めてから決めすからね。お嬢さん
女 お兄さんのお腹の中には お兄さん かわいい女の子が詰まっているんでしょ お兄さん
女の子のような珊瑚でつまったそのお腹に お兄さん 糸を通して珊瑚の首飾りでも作りましょうか お兄さん
後略(試訳 小川)
互いにけっこう辛辣な掛け合いであり、それでいて、意外と日常の延長の感じである。もしも、チベット人はオブラートのように優しい民族だと思っているひとがいたら(いないと思うけど)大きな間違いである。チベット人たちは優しさがむき出しなら、掛け合う言葉もむき出しである。ヒマラヤ薬草実習ではバスでの移動のときやパーティーのときに(第7話)、いつも即興の歌垣がはじまったものだった。そんな遊び心のなかにチベット医学生たちの知性を感じ取ることができ、外国人の僕はワクワクしつつも、一緒に歌えない劣等感を抱いていたものだった。
言葉、文字というのはもともと誰かと掛け合うものとして生まれてきたことを歌垣や問答(第138話)はわかりやすく思い出させてくれる。いっぽう日本では黙読文化が栄えている。文字や知識が自分の脳の中だけでコダマし渦巻いている。ちなみに、言葉、文字とは必ず声に出して伝える神聖なものであったのが、紀元前、アリストテレスの頃の時代にはじめて本の黙読という習慣が生まれたという。チベット社会ではもちろん黙読もするが基本的に音読、暗誦の文化が色濃く残っている。声に出す。そしてそれを誰かが受け止めてくれる。言葉や文字とは声にだし、掛け合ったときに本来の力を持ち始めるのではないだろうか。
自分自身、メンツィカンの音読、暗唱文化のおかげでその違いを実感できている。わかりやすくいえば日本では学問によって精神が繊細になり、チベットの学問では精神が骨太になった感覚がある。どちらがいいというのではない。日本特有の繊細さも世界に誇るべき文化かもしれない。ただ、もう少し文字を声に出す文化がよみがえり、学問の分野に骨太さが甦ってほしいなと思っている。「音読図書館。~当館は黙読禁止です~」みたいな図書館が日本に誕生しないだろうか。静かな図書館で黙読していると、いつもそんな遊び心が芽生えてくる。本の中に閉じ込められている文字を解放して、誰かにその言葉を掛けてあげたくなる。まずは日本の婚活や就職試験に歌垣はどうだろうか。
今度、久しぶりに一緒に「はないちもんめ」をやってみませんか?
参考
歌垣(うたがき)とは、特定の日時に若い男女が集まり、相互に求愛の歌謡を掛け合う呪的信仰に立つ習俗。現代では主に中国南部からインドシナ半島北部の山岳地帯に分布しているほか、フィリピンやインドネシアなどでも類似の風習が見られる。古代日本の常陸筑波山などおいて、歌垣の風習が存在したことが『万葉集』などによりうかがうことができる。 Wikipedia
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