新聞の使い方

*風のメルマガ「つむじかぜ」704号より転載

学生に、少しは新聞に目を向けさせようと始めた新聞の切り抜きが、もうすぐ一年になる。最初は、学生に朝刊から3つの記事を選んで切り抜いてA4サイズのノートに貼るよう指示を出した。一か月ほど続いたが、授業に持って来させるのを止め、継続するか否かを、学生の意思に任せたら全員そこで止めてしまった。彼らが自ら進んでやり始めたことではないから仕方がないが、続ければきっと何かが得られるのにと思うと残念である。

結局、続けたのは私一人。本当は、毎日やるのがいいのだろうが、平日は難しい。大体は、休みの日の朝食の後にこの作業を始める。2週間も溜めると、たっぷり午前中は掛かる。“記事3つ”という制約も不要になり、最低1つ、多いときは5~6記事を好みで切り抜く。もちろん、切り抜いた記事は読む。日々、新聞はスマホで読んではいるが、そんなに精読するわけではないので、切り抜きながらゆっくり読むことにしている。

一冊のノートで25日分程度が収まる。もう10冊以上になった。このまま何年か続けると、その量はとんでもないことになる。しかし、折角、記事を貼ったノートを捨てる気にはならない。スマホでもスクラップ機能がついているので切り抜きはできるが、紙でガサガサ音を立ててやっているのがいい。スマホならやらない。

一体、何のためにやっているのかと問われると、別に答えはない。何かに役立てるためにやっているわけでもない。私は、評論家ではないから、社会事象を一般の評論家と競い合ってこのコラムに書こうなどとは思っていない。だから、ここに書くネタ集めにも殆どならない。“役に立ちもしないことを時間を掛けてやるのは、それこそ時間の無駄だ”と一般的にはいわれるが、私は、そうは思わない。役に立たなくても、あれこれ考える時間ができる。考えるから楽しい。生きている実感が沸く。これが新聞を読む効能である。

かつて、新聞紙は、トイレットペーパーになった。子供のころは、新聞をトイレに置けるサイズの小片に切らされた。手でもんで使う新聞は、大変役に立った。今は、物理的には役に立たなくなったが、私にはなくてはならない貴重な存在である。


★弊社代表取締役原優二の「風の向くまま、気の向くまま」は弊社メールマガジン「つむじかぜ」にて好評連載中です。


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