*風のメルマガ「つむじかぜ」666号より転載
私が教えている学生の中に文章がとても上手な子がいる。昨年秋にゼミで行った知床研修の報告書をこの春休みに作成したが、校正を任せたところ大変しっかりした仕事をしてくれた。基礎が身に付いているから、おかしな日本語はことごとく修正され、綺麗な日本語になって報告書は完成した。
以前にもこの稿で書いたが、私の小中学校時代は本を読むのが苦手だった。環境のせいにするわけではないが、生家は菓子屋を営む職人の家だったから、家に本などというものはなかった。小学校6年生の時、東京の親戚を訪ねた折に、本というものを初めて買ってもらったが、本屋へ連れていかれても何を選んだら良いかわからず、結局、長嶋と王の写真が表紙に載っている野球の本にした。写真ばかりで読むところなどほとんどない本だ。
少年時代の私は野球や遊びに夢中で、テレビは好きだったものの本には興味が向かなかった。私にとって国語は、数学と違って理屈で理解できない曖昧模糊とした勉強だった。その上、感情表現を重視する長野県教育では、自分の秘密をさらけ出すことを半ば強要される作文の時間が多かった。自己表現が苦手な上に、変なことを書けば先生に何か言われるのではとビクビクしていたような少年だったから、作文の時間は大の苦手であった。
国語のテストの答え合わせを皆でやるのだが、一つの設問に皆が手を挙げていくつも答えをあげる。先生は、それもいいね、そんな見方もありだな、などと答えが合っているかではなく、感情移入ができているかを評価基準にしていた。この方が良い人もいるだろうが、私には不可解であった。
高校生になって驚いた。「国語は数学と同じだ。実に論理的に言語というものはできているし、文章は論理式のようなものだ。」正確に文言を覚えているわけではないが、国語の先生がこんな趣旨のことを言ってくれたのだ。
小学生のころから、文法を体系的に教えてもらっていれば、基礎的な国語力が身に付いただろうと思う。今、そんなことをぼやいても仕方がないが学生の日本語力に接するに、未だに日本の語学教育は曖昧模糊としているのではないかと危惧してしまう。
前出の学生が間違いを次々に指摘してくる。「従来から」は誤用です。従来とは過去から今までを指すので「から」は不要です。「価値が減る」はおかしい。価値が下がるか損なわれるです。実に明快である。私も、もう一度日本語を勉強しなおそうと思う。
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