*風のメルマガ「つむじかぜ」578号より転載
明治という時代の一般の人々は、どんなことを考えていたのだろうか。“御一新”という言い方は“維新”より分りやすい。『明治大正見聞史』(生方敏郎著、中公文庫)は、群馬県から出てきて明治期に学生生活を東京でおくった著者の見聞録である。
これを読むと“御一新”とは、一般庶民にとっては雲の上の出来事だったことが分る。新しい世の中に期待を寄せた人々が、物納から金納に変わった税金に苦しめられ、始終、日本のあちこちで一揆がおきていたらしい。従って、余り庶民には“御一新”は歓迎されていたとは言えない。
“御一新”すなわち明治政府への評価が大きく変わったのは、なんといっても明治27年(1894年)の日清戦争であろう。2回にわたるアヘン戦争で清は国力が衰え、日清戦争勃発時には、事実上、李鴻章の北洋艦隊しか国の軍は存在せず、しかも海軍としての練度も不十分であった、というのが日清戦争勝利の事情ではあるが、これによって明治の人々が大きな自信を持ち、庶民にとっても明治政府が大きな存在感を持ったことは確かだろう。
下関条約で、台湾と遼東半島の日本への割譲が認められたが、その後の3国干渉で遼東半島は返還することとなり“臥薪嘗胆”となるわけだが、以来、1945年日本敗戦まで台湾を占領したのだから驚いてしまう。
『明治大正見聞史』には、この日清戦争以前は、軍事色はまったくなかったが次々と細かな日常の中に軍事色が色濃く反映されていく様子を「戦争のはじめにもった不安の念が人々から脱れると共に、勝に乗じてますます勇む心と敵を軽蔑する心とが、誰の胸にも湧いて来た」と書いている。
また、日清戦争以前は支那に対する憎悪などというものは全くなく、むしろ先進的で尊敬すべき国であったが、開戦と同時に、支那人への憎悪が増し「討てやこらせや清国を、清は皇国の仇なるぞ、東洋平和の仇なるぞ、打ちて正しき国とせよ」という唄まで流行るようになったという。
10年後、日露戦争となる。日清戦争に比べ遥かに大規模となったこの戦争では“203高地”の戦いに代表されるように、激しい陸戦があり多くの日本人が命を失った。著者の兄が、いよいよもうじき招集されそうだと手紙をよこし、大学を辞め田舎に引き上げて母親の面倒をみろと書いてきたことで、日露戦争は著者にとって全く違う意味を持ち始めた。その心境を以下のように書いている。
「手紙を持つ私の手は思わずがたがたふるえた。兄はこの一月に結婚したばかりだ。(中略)勿論この戦争は自分たちの戦争とは思っていたものの、こうも直接に自分たち自身の戦争とは思わなかったのに。そしてやはり見物気分でいたのに。(中略)その日から本も何も手につかなくなり、帰国することばかり考えていた」
戦争は、ニュースで見ている限りは全くリアリティーがない。日本が他国と戦えばその勝利を望まないものはいないだろう。しかし、自分の身内が出征するとなると途端にリアリティーが迫ってくる。そんな様子がこの本で、手に取るように分る。 (つづく)
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