父との別れ

*風のメルマガ「つむじかぜ」572号より転載

3月6日からのネパール添乗中に珍しく兄から電話が入った。親父がそろそろ危ないから顔を見せに来いとのことだった。親父は90歳だからいつどうなってもおかしくはないが、「え?なんで。正月会った時は、あんなに元気だったのに」と意外に感じた。

添乗から帰った翌日3月13日、バスで田舎(長野県飯田市)に帰った。15時過ぎに到着し、バス停からタクシーで直接老人ホームに向かった。本人は、「話し相手もいて、おれはここでいいよ」と言ってお試し入園の後、ホーム入りを承諾した。それから、一年ほどしか経っていない。

部屋に入ると、親父は、「ぜぇー、ぜぇー」と荒くて長い息をしながら眠っていた。看護師さんが「昨日までは、息も普通だったんですが、今日は荒くなっていますねえ。最近は、嚥下(えんげ)がだんだんできなくなってきていて、昨日は、プリンを少し食べたんですが、今日は、何も食べていません」と淡々と説明してくれた。「あと何日くらいですか」と尋ねようと思ったが無駄なことだと思いやめにした。

目は開けている。何度か呼びかけると少し反応があった。震える腕を何とか動かして指でのどを指した。「声が出ない」と言いたいらしい。手を握ると僅かに握り返してきた。意識は、しっかりしている。何か言おうとしている。「ありがとう」そう聞こえた。「また来るで」と言って部屋を出た。

三日後の3月16日午前3時前、その日から老人ホームに泊り込んだ兄に看取られ静かに息を引き取った。最期の別れに訪れたみんなにありがとうと言っていたそうだ。

老衰とはこういうことを言うのかと私は初めて理解した。嚥下の機能を失い食べられなくなった。それで体力を失くしたのだろう。亡くなる2週間ほど前から軽い肺炎をおこし熱があったので解熱剤を点滴していたそうだ。それがなければもっと生きられたのかもしれないが、生きる力がもはや失くなっていたというべきだろう。まさに授かった命を全うした。見事である。しかも、最期の言葉は「ありがとう」とは、なんと幸せだったことか。

私は、以前にも書かせていただいたが、親父とは、中学生くらいから殆ど話をしなくなった。とくに喧嘩をしたというわけではない。適切に表現できないが「漠然とした反発」ということだったのだろう。働くようになってからは、そんなことも無くなったが、心を打ち明けられる関係にはついになれなかった。

親子とは、そんなものだろうが、最期に二人で会えたことで、私はいい別れ方ができたように思う。

★弊社代表取締役原優二の「風の向くまま、気の向くまま」は弊社メールマガジン「つむじかぜ」にて好評連載中です。


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