正岡子規とかわうそ

*風のメルマガ「つむじかぜ」551号より転載

俳句雑誌『ホトトギス』は、現在もホトトギス社によって発行が続いている。1897年(明治30年)に正岡子規の友人である柳原極堂が松山で創刊し、正岡子規の雅号「子規」(ホトトギスの意味)を取って「ほととぎす」とした。最初は、松山の地で地方の俳句雑誌としてスタートしたが、全国から次々と稿が寄せられ、柳原極堂が東京で発行すべきと提案した。それを高浜虚子が受けて、創刊の翌年の秋からは東京で発行されるようになり「ホトトギス」と誌名もカタカナに変更された。それから120年近くたった現在のホトトギス社主宰も高浜虚子の曽孫の稲畑廣太郎氏が務めている。

正岡子規は、日清戦争の従軍記者として遼東半島に渡ったが、その帰国の船中で喀血し、1902年に亡くなるまで病魔にさいなまれた。特に、結核菌が脊椎を冒し脊椎カリエスを発症して以降は、床に伏す日が多くなった。やがて臀部や背中に穴があき膿が流れ出るようになり激痛に襲われ続けたが、それでも、病と闘いながら多くの俳句、短歌を残している。

正岡子規の句は、大好物の柿を詠んだものが多い。
・柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺
・風呂敷をほどけば柿のころげけり
・柿くふも今年ばかりと思ひけり

また、死の前日に以下の絶筆三句を残している。
・糸瓜咲て痰のつまりし佛かな
・痰一斗糸瓜の水も間に合はず
・をとゝひのへちまの水も取らざりき

私は、俳句を詠むような心得はまったくない。でも、正岡子規の俳句は大好きである。「風呂敷をほどけば柿のころげけり」、柿をお土産にもらったのだろうか。本当に嬉しそうな正岡子規の顔が浮かぶ。

話は別だが、正岡子規は、別号として「獺祭書屋主人」を使っている。最近、山口県の旭酒造の「獺祭」という日本酒が話題になっているが、同社のホームページには「獺祭」命名由来を以下のように語っている。

『弊社の所在地である獺越の地名の由来は「川上村に古い獺(編集部注:かわうそ)がいて、子供を化かして当村まで追越してきた」ので獺越と称するようになったといわれておりますが(出典;地下上申)、この地名から一字をとって銘柄を「獺祭」と命名しております。獺祭の言葉の意味は、獺が捕らえた魚を岸に並べてまるで祭りをするようにみえるところから、詩や文をつくる時多くの参考資料等を広げちらす事をさします。獺祭から思い起こされるのは、明治の日本文学に革命を起こしたといわれる正岡子規が自らを獺祭書屋主人と号した事です。「酒造りは夢創り、拓こう日本酒新時代」をキャッチフレーズに伝統とか手造りという言葉に安住することなく、変革と革新の中からより優れた酒を創り出そうとする弊社の酒名に「獺祭」と命名した由来はこんな思いからです。』

変革と革新の中からより優れたものを作り出す。なるほど、そんな思いを噛締めて子規の俳句を眺めながら獺祭を飲もうと思う。

★弊社代表取締役原優二の「風の向くまま、気の向くまま」は弊社メールマガジン「つむじかぜ」にて好評連載中です。

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