6月23日は、沖縄で「慰霊の日」を迎え、最後の激戦地となった沖縄県糸満市摩文仁(まぶに)の平和祈念公園では「沖縄全戦没者追悼式」が行われた。以下は、沖縄県公文書館のHPより抜粋したものである。
『1945(昭和20)年4月1日、アメリカ軍が沖縄本島西海岸の読谷(よみたん)から北谷(ちゃたん)にかけての海岸に上陸しました。沖縄本島上陸におけるアメリカ軍は、艦船1,400~1,500隻、兵員約18万3,000人、補給部隊を含めると、約54万8,000人の大軍でした。一方、日本軍の兵力は9万6,400人であり、そのほかに、戦場動員された13歳から70歳代の地元住民を含めても約11~12万人に過ぎませんでした。沖縄戦は90日にもおよび、20数万の多大な人命が失われました。』
先日、『ペリリュー島・沖縄戦記』(ユージン・B・スレッジ著 伊藤真/増田和子訳、講談社学術文庫)についてご紹介した。題名の通り、著者はペリリュー島の後、沖縄に転戦している。日本兵士の死体がごろごろ転がる中で壕を掘り、ドロドロの泥と蛆虫の中を這って闘う描写にはつい目を背けたくなった。この時期、沖縄は梅雨だったと私は今まで気がつかなかったが、冷たい雨の中の激闘を想像するとリアルさは一層増す。
6月14日(日)のNHKスペシャルで「沖縄戦 全記録」が放映された。まさに、『ペリリュー島・沖縄戦記』で読んだ場面が映像で写しだされると、米軍兵士の叫びが聞こえて来るような気がした。
6月9日の沖縄タイムスの記事によれば、琉球政府が戦後まとめた「昭和20年4月以降における防衛召集事実資料豊見城村 三和村 具志頭村 東風平村 兼城村」(県公文書館所蔵)には、以下のように記されていると掲載されているという。
『陸軍と海軍の防衛召集規則によると召集年齢は17歳から45歳。作成された名簿から人選し、氏名や部隊名を書いた「青紙」の召集令状で本人に通達した。しかし、島尻郡の召集では、対象でない年齢が含まれ、通達も令状なしという場合がほとんどだ。(中略)
歩兵第32連隊が召集した兼城村・高嶺村・糸満町では、「地勢に詳しい遊撃戦」の要員として「3月の防召から漏れた者、年齢16歳以上、52歳迄の者」と年齢幅が広げられた。4月18日と5月16日に区長らが口頭で220人を召集した。
摩文仁村・喜屋武村・真壁村では4月18日と20日に、名簿を元に口調が口頭で指名、令状なしに70人を招集。「満16歳より、満50歳までの青壮年」と最高年齢を5歳引き上げた。
東風平村では同月26日に200人が召集された。輜重(しちょう)兵第24連帯の大尉が村長に名簿作りを命令。首里などの避難民2割を含め500~600人が記載された。対象は「男子15歳以上17歳未満及び45歳以上55歳までの者」。壕を訪れた曹長が呼び出し、「良いといった者」に召集令状を渡した。
具志頭村では5月上旬に、下士官と軍医が村長らをつれ号をめぐり、指名を調べ名簿を作成。5月16日と18日に120人を召集した。 』
沖縄では、防衛召集で約2万2千人が1943年6月から1945年4~5月の間に4次にわたり召集され「防衛隊」と呼ばれ、陣地構築や物資運搬などに従事。このうち半数以上の約1万3千人が戦死した。中には、爆弾を抱えて戦車の下にもぐりこめと命令された人もいるという。やはり戦争は、狂気である。
6月23日という日を沖縄の人たちは、決して忘れることはないだろう理念的な美辞麗句にごまかされないで、実際に何があったのか、検証することを怠ってはならない。