「表現の自由」がフランス人にとって根源的なものである、ということを最近改めて知った。なるほど、どんなに辛辣な風刺でも、悪ふざけが過ぎていると他国の人から言われても、絶対に「表現の自由」は制限されるべきものではない。フランスでは、この原則が揺らぐことはない。
ところが、日本人には、これがなかなか理解できない。年明けからの「シャルリ・エブド襲撃事件」に関する様々な報道でそれが明確になってきた。各言う私もその一人である。理屈では理解できても、感覚的にはどうしても理解できない。
私には、相手のプライドを傷つけるような直言的な表現は、避けるという態度が身についてしまっている。相手のプライドを傷つけるようなことは言うべきではないとも思うから、結局、曖昧なもの言いになってしまう。
こんな個人的な感覚と、フランス革命で打ち立てた「表現の自由」を比べるなんてそもそも間違っているとは思うが、どうも、日本人が理解できない理由は、こうした感覚にあるように思う。年末、話題になったハリウッド映画「ザ・インタビュー」でも、決して北朝鮮の味方をするわけではないが、私は、やっぱり首をかしげてしまう。
日本人は、「自由」よりも「他と和する」ことの方に重きを置くと私は思う。「自由」は、なかなか日本人には身につかず、こだわりもあまり強くない。故に、表現者が、事前に自らが、あれこれ配慮して表現に制限を加えることは、日本人にとっては、自由を犯されていることにはならないということになる。
やはり、血を流して勝ち取り、自らが打ち立てた最も基本的な権利であって犯すべきことは、何人たりともできない。これが崩れたらフランスではなくなる。とまで考えると言われるフランス人とでは、違って当然である。私には違いは、「表現」ではなく「自由」の捉え方にあるように思える。
私は、この仕事をしていて、世界にはまったく違う価値観が存在していることを強く感じてきた。どんなに仕事上、日本人の感覚を押し付けても、「お互いの違いを認めあい人として尊敬しあう」ということなくして、永続的な信頼関係はできない。自分の価値観を押し付け、従属関係を迫るような人間がいれば、世界から争いは消えない。これだけは、私の肌感覚で理解できる。
残念なことに、「シャルリ・エブド襲撃事件」とその後の世界の動きは、全く逆の方向に動いている。21世紀に入って、9.11米国同時テロで表面化したこの対立は、いったい何時まで続くのだろうか。
「火事と喧嘩は江戸の華」などといわれた。江戸っ子は喧嘩早く、思ったことを隠しておけない。口は悪いが、腹黒ではない。なんといっても、武士道からして、うじうじして自分の主張をしないような生き方は、どう考えても好ましくなかったに違いない。
4月から、中国人留学生と一緒に勉強することになった、彼らから、ズバリと表現するコツを学ぼうと思う。形ができれば、心もそれに付いていくことになるかもしれない。