文●川﨑 一洋
現在インド領に属する西チベットのラダック・ザンスカール地方には、文化大革命の被害などを受けた中国領のチベット文化圏に比べ、貴重な仏教壁画が豊富に保存されています。特に、アルチ寺などに残るカシュミール様式の壁画は、千年の時を経て色褪せることなく、多くの人々を魅了してきました。
『ラダック・ザンスカールの仏教壁画 ―西チベット残照―』を出版された森一司氏(1925年生まれ)は、1986年から2001年にかけてラダック・ザンスカールを32回も訪れ、名刹・古刹を隈なく訪ねては壁画の写真を撮り溜め、すでに写真展も開催されているアマチュアのカメラマンです。チベット仏教寺院を訪れたことのある人は覚えがあるでしょうが、大概お堂の中は暗くて狭く、壁画はニスを塗ったように表面に光沢があり、写真に収めるのは容易なことではありません。しかし、森氏はプロ級の技術でそれらの困難を克服し、今では撮影が禁止されているアルチ三層堂の内部を含め、数多くの壁画の写真撮影に成功しています。本書は、その森氏の撮影旅行の集大成ともいえる力作です。
そこに、密教美術研究の権威である田中公明博士が、最新の研究成果を踏まえて解説を加えられていることも、本書の大きな魅力です。編集は、チベット建築の研究者である大岩昭之氏が手掛けておられます。
本書では、寺院ごとに壁画を紹介するのではなく、Ⅰ如来、Ⅱ菩薩、Ⅲ守護尊、Ⅳ護法尊、Ⅴ女性尊、Ⅵ祖師、Ⅶ曼荼羅、Ⅷ仏伝図・その他と、尊格や題材のカテゴリーに沿って写真が集められているため、いわば「仏像図鑑」として、仏教図像を学ぶ読者にも有益です。また、巻頭にはラダック・ザンスカールの美しい風景や有名な寺院の写真、詳細な地図が掲載されており、巻末にはチベット仏教史の略年表や参考文献の一覧も付されています。写真集にしては小さめのサイズ(19×27cm・228頁)で、携行にも便利です。
すでにラダック・ザンスカールを訪れたことのある読者には、旅の記憶を甦らせるアルバムとして楽しめ、まだ訪れたことのない読者には、寺院めぐりの旅を予習する教科書として役立つ、恰好の一冊です。
『ラダック・ザンスカールの仏教壁画 ―西チベット残照―』
撮影:森 一司 監修:田中公明 編集:大岩昭之
(渡辺出版/ 2011年7月発行)
「風通信」45号(2012年4月発行)より転載
執筆者プロフィール
現役住職にして仏教美術研究家
川﨑 一洋 (かわさき かずひろ)
昭和49年、岡山県生まれ。高野山大学博士課程修了。博士(密教学)。現在、高野山大学特任教授、四国八十八ヶ所霊場第二十八番・大日寺住職。密教の曼荼羅を中心に、アジア各地の仏教美術、仏教儀礼を研究。ネパールやチベットの各地でフィールドワークを重ねる。
著書:『四国「弘法大師の霊跡」巡り』(セルバ出版)、『弘法大師空海に出会う』(岩波新書)
共著:インド後期密教(上)(春秋社) 第1章担当
インド後期密教(下)(春秋社) 第6章担当