2002年、御逝去
1998年、インド・ムンバイの19歳の青年は白血病に冒され医者から余命いくばくもないと宣告された。アメリカに渡って再検査を受けたものの結果は変わらず。死を受け入れた彼と両親は最後の巡礼にとダラムサラの近くにあるヒンドゥーの聖地を訪れた。そこのサドゥー(修行者)が彼にこう教えたという。「ダラムサラにチベット医学の病院があるから行ってみなさい」と。彼にとってはじめて耳にするチベットという単語。彼はせっかくだからと足を運び、故ロブサン・ワンゲル先生の診察を受けた。先生は故チューダック先生(第86話)とともにダライラマ法王の侍医を務められた名医である。
法王の左隣が治った青年
そして、奇跡は起きた。数ヵ月後、白血病が完治したのである。この奇跡はインドの新聞で大きく取り上げられチベット医学の名前がインド全土に知れ渡ることとなった。両親は感謝の気持ちとして建物を寄贈し、2002年、メンツィカン・ムンバイ分院が始まることとなる。待合室にはダライラマ法王とともに笑顔に包まれた家族の写真が掲げてある。
病院には地元の多くの患者が訪れ、2007年にはムンバイにもう一つ分院を増やすこととなった。青年を救った奇跡の処方「ダドゥ(朝)グルクム(昼)アガル(夜)」の組み合わせは呪文のように知れ渡り、これを処方してほしいと患者が指定することもあるという。もちろん、この処方が普遍的に白血病に効くわけではないことをアムチたちは肝に銘じているし、なによりも、彼自身があきらめの境地に達していたからこそ奇跡が起きたのではという客観的な推論も忘れてはいない。「凄い大金持ちの一家らしいぞ」と僕たち学生のあいだでは噂されていたけれど、実際には一般的な家庭で、彼は2011年の今も元気に父親の仕事を手伝っている。
ここまで劇的ではないにしろ、先輩アムチたちは結果を出すことでインドの各都市へと分院(チベット語でイェンラク)を拡げていった。ペマ先生は東インドのベンガル地方で絶大なる信頼を得て分院を増やし、南インドではラブデン先生が多くの分院を開拓し、タムディン先生は首都デリーで、やはり絶大なる名声を得て、当時は1日に平均100人近い患者の診察にあたり、インド政府関係者からもお呼びがかかったという。
1961年、イギリス人が残していった空き家からメンツィカンは始まった。ゼロからの出発。それがわずか50年のあいだにインド・ネパール全土55か所の分院を持つまでに発展したのである。チベット薬には科学実験によるエビデンス(証明)は存在しない。しかも、自分たちから売り込むような商売気もない。ましてや難民という弱い立場にあるはずだ。そんな不利な条件ばかりが揃っているにも関わらずである。奇跡の治癒はチベット医学だけでなく、現代医学、漢方、鍼灸など医学の範疇を問わず、真摯に取り組む医師・患者のもとに平等に降り注ぐと僕は思っている。だから、難病治癒の事例を医学的に検証することは重要ではないと思う。それよりも、それをきっかけとしてメンツィカンがインド・ネパール全土に広がっていったという社会学的な奇跡にこそ僕は注目している。
また、医者としてだけではなく教師としてもメンツィカンは幅広く貢献している。チベット医学文化圏の医学校(バラナシ、ダージリン、ラダック、ブータン、ブリヤ-ト、ムスタンなど)から教師派遣の依頼がよせられるのだ。メンツィカン出身のアムチは四部医典の理解度に長けていることから各地で教師として信頼を得ている。学問においても高い水準にまで復興し維持することで、広範囲にわたるチベット医学文化圏の土台を支えているのである。こうした先輩たちの偉大な業績を、2011年3月23日から開催された「メンツィカン50周年記念展示会」で改めて知ることができたのは幸いだった。
しかし、前述のように難病が治癒するなんていうドラマチックな場面というのは、そうそうあることではないし、まだまだチベット人の平均寿命は日本人よりも短い。インド・ネパールには受け入れられたけれど、だから日本社会でもというわけにはいかなさそうだ。
とはいえ、以前、こんなことがあった。冬休みに日本に帰国する際、神奈川県の日本人夫妻にお土産を届けてほしいと、メンツィカン職員から小包を託された。故ロブサン・ワンゲル先生が1995年に来日された際に、結婚12年目の夫妻を診察し、不妊症に効果があるチベット薬を処方したところ、しばらくして子供を授かったという。夫妻は感謝の気持ちを忘れることなく先生に手紙や贈り物を続けていた。今回、そのお返しを運ぶ役目を授かったわけである。日本からは小包を郵送したので夫妻にはお会いできなかったけれど、この小包の存在はチベット医学が日本で起こした小さな奇跡を僕に教えてくれた。凄いぞ、メンツィカン!
(注) : 現在、チベット薬は日本で入手するこができません。期待だけさせてすいません。
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