小川 康の『ヒマラヤの宝探し 〜チベットの高山植物と薬草たち〜』
法が乱れる濁世の五百年、魔鬼がさまざまな急性の病気を引き起こす。鬼女が伝染病をまき散らす。外教徒の作る新たな物質が毒となる。その時、自分と他人を守る術をここに教える
『四部医典』最終章第156章より
201X年、原因不明の熱病が日本で猛威を奮い、いかなる現代薬も歯が立たない危機的な状況で日本国民は上記の予言が記されていたチベット医学に最後の望みをかけた。なんでも古き薬草書「本草例解」の中に
ヒマラヤ薬草七姉妹が濁世の時代の熱病を癒す
という記述が残されているという。厚生労働省が藁をもすがる思いで風の旅行社に電話を掛けると、薬草の女神イトマに愛された男(第5話参)ヒゲ村氏が「じゃあ、みんなでヒマラヤに宝探しに出かけましょう。ただし大臣も誘ってくださいね。リュックには“無邪気な遊び心”を忘れずに詰めてきてください」と能天気かつ意味不明な返事をする。「そんな遊んでいる暇は無いんだ。いま、人類の存亡が…」と歯軋りしながらも無機質な霞ヶ関の中にふっとヒマラヤの大自然が浮かび申込書を取り寄せさせたのは、もしかしたらイトマが耳元で「お・い・で」と優しく囁いたからかもしれない。
薬草の宝庫インド・マリーに到着後、早速、メンツィカン(チベット医学暦法大学)卒業生の小川氏から薬草七姉妹の説明があった。
1:トンリ・スィルパ | 2:ティクタ(第30話) | 3:ホンレン(第2話) |
4:ボンガ・カルポ(第8話) | 5:パンツィ・トポ(第5話) | 6:ヤァキマ |
7:ガンガ・チュン |
新品のホー●ンズのシューズ、ゴ●テックスのウェアで装備を固めた厚生労働大臣からすぐさま質問が飛ぶ。
「では、その七つの薬草を集めて薬を作れば謎の熱病が治るのだな?」
「・・・、はい。ただ全て見つけられたらの話ですが、そう簡単にはいきませんよ。なにしろ女神イトマはかなり巧妙に薬草七姉妹を隠したと伝えられており、一つでも欠けると効力は発揮されません。特に最後のガンガ・チュンは私も未だに出会ったことがない幻の薬草なのです。なんだかワクワクしますね。あっ失礼、不謹慎な発言でした。」
四方を山に囲まれ盆地のようなマリーの上空は雲ひとつ無い濃青の空が広がり、こうして風と川の音に耳を澄ましていると日本の危機的状況が嘘のようにさえ感じられてしまう。
小川氏はまず山肌を黄色く彩る北東の山を目指した。すると20名ほどの若者が黄色い薬草を一心不乱に大きな麻袋に詰めているのが見える。
「あれが七姉妹の最初の薬草トンリ・スィルパ、通称トンスィル。トリカブトと同じキンポウゲ科に属し全ての熱病に効果があるとされています。ちょうどメンツィカンの学生が強制労働、いや失礼、薬草実習でトンスィルを採取しているところです。よく見ていてください。ここからある生徒は谷に向かって40kg もある麻袋を投げて転がします。ある生徒は最初から背負って山を下ります。最初は転がし組みが圧倒的にリードします。しかし、トンスィルは“千の山の雫” という名前に相応しく必ず水気のある場所に生えていることから山を転がり落ちたときには麻袋は吸湿して60kgくらいになっています。平地になってからは、それはまさに地獄のような重さ。そして結局は背負い組みに追い越されてしまうのは、まさに“ウサギと亀”の教訓そのものです」
あまりに実感のこもる解説に、彼が学生時代ウサギ組だったことを誰もが疑わなかったが、これ以上どうでもいい解説を聞きたくないので黙っていた。
「さあ、せっかくですから、みなさんも採取を手伝ってみませんか」という唐突な小川氏の提案に最初はしぶしぶだったが、取り始めてみると意外と面白い。パンパンに膨れ上がった麻袋を背負った大臣はどこかしら誇らしげで楽しそう。
「どれ、若いもんには負けられん。わしも小さい頃はこうして畑で働いたものだった。思いだすなあ。それはそうと、早く次の薬草を教えてくれんか」
「では聖なる湖ラツォに行って聖水を飲み私たちのパワーを高めましょう(第3話参)。というのは冗談で、ラツォへの道すがらティクタを採取できるのです。あ、大臣、麻袋は蹴飛ばして谷に転がしといて下さいね。あとで生徒が運びますから。じゃあ出発!」
厚生労働省御一行はこのチベット医学界のトリックスターに日本の命運を託していいものか限りない不安に襲われたが、もはや時すでに遅く、ただ後をついていく他なかった。 (続く)
注 実には薬草の採取はできません。メンツィカン学生による実習は8月6日から20日間ほど行われます。また、教典の記述は事実に基づいていますが物語はフィクションです。薬草七姉妹シリーズは不定期連載です。