小川 康の『ヒマラヤの宝探し 〜チベットの高山植物と薬草たち〜』
大学の構内の柳(チャンマ)の木の下から級友たちが「おい、オガワ、チャイ飲んでいけよ」と手招きしている。つい10日前の暗誦試験(第23話参)を終えるまでの5年間は、恒例のように笑顔で手だけ振り返していたものだが、今は足が自然と彼らの下へ向かっていく。彼らが「おっ、珍しいな」と若干の戸惑いを隠さずに僕を迎えてくれるのが何とも気恥ずかしい。彼らとのんびりとおしゃべりしながら、もっとこうした時間を持てればよかったのにという後悔が湧き上がってくるものの、ギュースムという大きな夢のために犠牲にしなくてはならないこともあったのだと自分を慰めている。5年間に及ぶ厳しい校則(第10話参)と試験から解放されたせいだろうか、みなの顔がアムチ(チベット医)らしく大人びて見えるから不思議なものだ。
「オガワ、これからどうするんだ? お嫁さんも早く見つけなきゃな。」
お互いの将来を語り合いながら柳の木の下で時間は流れていく。柳は乾燥に最も耐えうる木の一つで、チベット本土では主に柳で屋根が葺かれたり詩に詠まれたりするなど、生活に最も根ざした木であるといえる。小さな大学構内で繰り広げられた5年間の物語は振り返ってみれば全てが輝いているけれど、もちろん楽しかったことばかりでないことは柳の木が一番よく知っている。
メンツィカンに入学して2年目の6,7月、僕は4人部屋のルームメイトと気が合わず、部屋を飛び出し寮の渡り廊下に布団を敷いて寝ていたことがある。今思えば雨季だったこともあり精神的に不安定だったのだろう。夜、雨の雫に目を覚ますと寮のシンボルである柳が僕の傍で風に揺れていたものだった。もう日本に帰ろうか、そこまで追い詰められたある夜、胸に生温かい重みを感じて目を覚ました。もしかしたら蛇が寝ているかも、と恐る恐る寝袋の中を覗いてみると子猫が申し訳なさそうに丸まっている。昨年日本で亡くなった愛猫が「がんばれ」そう励ましてくれているような気がし、涙がこぼれた。
僕の人生の中で寮生活は2度目で、最初の日本での寮生活はこれよりもさらに過酷なものだった。大学を卒業した後、「日本青年奉仕協会(JYVA)」というボランティア団体に席を置き、北海道の留寿都村(るすつ)にある小さな農業高校に指導員、兼、臨時講師として赴任したのである。とはいえ主な仕事はというと、寮で生徒と共に生活しながら生活指導をしたり相談相手になることで、生徒の門限は5時ならば、指導員の僕の門限は昼の3時、しかも日曜日も外出禁止だったことは生徒からすらも同情をかっていた。部屋は生徒と同じ並びにあるため、プライベートはないに等しく、常に誰か彼かが居座っていたものだ。生徒のほとんどは、いわゆる不良で、進学校で順風満帆に育ってきた僕にとってはまさに異文化、外国人の中に放り込まれたといっても過言ではなかった。そして留寿都での異文化体験の衝撃はここチベット人社会での体験を遥かに上回っており、もしかしたらそのおかげで、いまこうして卒業できたのかもしれないと振り返ることがある。あの時の生徒たちは今、どうしているだろう・・・。
「俺とミクマルは明日の夜、出発するよ。実習先は南インドだから、しばらくは会えないな」
一人また一人、荷物をまとめてダラムサラから去っていく。そしてインド各地に散らばる分院において一年間のインターンが始まる。他の同級生たちはくじ引きによって実習先が振り分けられるが、僕は現地のヒンディー語(インド語)ができないこともあり特別にこのままダラムサラでの実習をあてがわれた。意外に思われるだろうが、分院50箇所に来る患者の約7割は現地のインド人であり、そのほとんどは貧しい人々である。医師のその場の判断で貧しい患者には薬代を無料にできることから、ほとんど収入がない分院もある。インドではまだカースト制度が根強く残っていることもあり、行き場を失ったカースト下位の貧しい人々は、救いを求めるようにメンツィカンの病院にやってくるという。仏教同様にインドから伝わったチベット医学は、難民という形でインドに戻り、そして母なる国にこれ以上は無い形で恩返しをしている。まさに、仏教に根ざした精神医学の世界。
チベット人にとって人と人との距離をせばめ、常に親身になって相談にのることはあたりまえの行為に過ぎない。きっとチベット医の柔らかで気さくな診察風景は、5年間の寮生活から生まれてくるのだろう。カビ臭い寮で共に暮らし、時には喧嘩し、時には笑い、時には大学への不満をぶつけ合う、そしてヒマラヤの山々で共に汗を流す、これらの楽しくも厳しいハードルを乗り越えて初めてアムチの称号が与えられると僕は考えている。