小川 康の『ヒマラヤの宝探し 〜チベットの高山植物と薬草たち〜』
2006年11月、メンツィカン卒業生13期生による謝恩会が夜遅くまで続けられていた。ゲーム、歌、踊り、一通 りの演目が終わり、生徒代表による締めの挨拶で賑やかな会がようやく終わろうとしたとき、一瞬、彼の横目が僕を捕らえた。
「最後に、本当ならば俺たちと一緒に卒業するはずだったオガワからどうしても一言もらいたい。俺たちはこれからどうすればいい。チベット医学はどこへ向かっていけばいいんだ。おまえの率直な意見を聞かせてくれ」
会場は、急に夜の10時に相応しい静けさと緊張感がみなぎった。たとえ和やかに進行した会の雰囲気を覆そうとも、オガワは必ず飾らない言葉を発することを長い付き合いで彼らは知っている。しかし、彼らが今ここで期待してくれている僕の真っ直ぐな性格が原因で2004年春に大学と衝突し一年間休学することになったのだから、考えてみればなんとも皮肉なものだ。
「・・・、改めてここで話すことは特にないよ。みんなとは寮や教室で何度も討論し、時には3時間近くもやりあったよな。もしかしたら、みんな僕のことを“ 科学の化身”のように捉え、チベット医学の敵だと思っているかもしれない。でももう一度言わせてくれ、科学ってなんだ?機械や顕微鏡や検査数値が科学なのか?違うよ。科学って“カレチェネ(なぜ)?”と考えることなんだ」
チベット医学は科学を対極に据え、何千年も前に神様によって創始されたとされる医学を信仰している。しかし実際には、現代科学者がその行き詰まりに悩んでいるとされる以上に、メンツィカンの生徒たちは現代医学の波の中でもがいている。「自分は医者であると誇れる具体的な技術がほしい」と切実に願っている。そしてその苦しさを打ち消すかのように、科学の国からの来訪者に戦いを挑んでくる。
「現代医学の理論は次々と改定されていくじゃないか。四部医典は何千年も改定されていないから完璧だ。現代医学は原因を治さずに症状だけを治すじゃないか。俺たちにも昔は高度な外科技術があったのだ・・・・」
そんな彼らの問いに僕は一つ一つ、時には日本の生理学書を見せながら答えていくこともあった。次々と教典の内容に疑問を呈しつつ彼らを追い詰めていく僕は、恐らく邪悪な異教徒のように映ったことだろう。
「僕は“なぜ”と考えることが好きだ。新しいことが好きだ。そう、たとえば二年生の秋にみんなで力をあわせて薬用バターを作ったり(第16話参照)、タワでお灸を作ったよな。あれは一番楽しかった思い出の一つだよ。僕たちだけの新しい歴史を築いたじゃないか」
2003年10月、薬用バター事件の翌週の日曜日、親友のジグメとお茶をしているときに、おい、お灸って作り方知っているか?という話になり、先週から続く勢いでそのまま標高2500mの群生地まで原料のタワを取りに行くことになった。
タワ・トンダ・スムギ・トゥ・サントゥ・
タワは秋の三ヶ月の吉日に採取せよ
四部医典結尾部第21章お灸の章
1)タワをしごく
2)タワの粗い部分を取り除く
3)サズの黒焼きと混ぜる
まさに時は秋、思い立ったが吉日。二人で袋一杯のタワを採取し翌日、先生に現物を見せつつ「お灸の作り方を教えてください」とお願いしたところ、よしみんなでやるか、という話に盛り上がった。まずタワをしごき、打ち付けて柔らかくする。さらに金網で濾して粗い部分を除去する。次にサズ(第17話参照)の黒焼きと混ぜてよく揉む。と説明すると簡単そうだが、今回も一度失敗し、翌日、製薬工場のベテランを招聘してようやく完成することができた。放課後、校庭で行われた即席の製薬実習を通 して僕たちはお灸の作り方を知った。そしてそれは“なぜ”から始まり完成までの過程を知るという科学の体験であり、東洋医学と科学との小さな融合だったと捉えたならば彼らには甚だ迷惑だろうか。
「喧嘩ばかりしていたけれど、チベット医学が世界に真に認められたときに、一番得をするのは外国人の僕だよ。お金持ちになって、それに綺麗なお嫁さんももらえるな」と冗談で締めくくっても誰一人として笑ってはくれず、夜の静粛はさらに深さを増したように感じた。と、そのときケルサンが立ち上がった。
「俺たちは決してオガワを敵だとは思っていない。それどころか、きっと近い将来、俺たちは手を取り合うはずだ。オガワ、信じているよ」
まるで青春学園ドラマのような展開に会場全体が行き場を失ってしまったかのような照れくささに包まれたけれど、僕の心は、彼らがチベット医学の新しい時代を築いてくれるという希望で満ち溢れていた。