小川 康の『ヒマラヤの宝探し 〜チベットの高山植物と薬草たち〜』
午後1時に4時間目の授業が終わった後、火水木曜日は夜の7時の読経まで自由時間となるので、僕はたいてい日本食レストランへお昼を食べに出かける。レストランは大学から標高にして300mほど上がったマクロードガンジと呼ばれる地域にあり、チベット人の商店街やホテルはここに集中している。(地図はこちら)大学があるカンキ(カンチェン・キションの略)という街からそこまでは通常タクシーを用いるものだが、僕はほとんど徒歩で通う。オガワは日本人でお金もあるのにどうしてタクシーを使わないんだ、と同級生から不思議がられるが、実はヒマラヤ薬草実習で僕が彼らに遅れを取らない理由はここにある。逆に、普段は寮でのんびり過ごしている同級生たちが、いざ実習となると全く支障を見せないのはやはりチベット人の血なのかと感心させられる。苦労は買ってでもせよ、という日本の格言は彼らには理解し難いだろうし、それは苦労を知らずに育ってきた日本人の贅沢な考えなのだろう。事実、彼らは例外なくアメリカや日本の先進諸国の便利な生活に憧れ、逆にわざわざ日本を離れカビ臭い大学寮で暮らす僕を奇異な眼で眺める。何を物好きな・・・と。
普段は30分くらいでレストランに着く道のりが、4、5月だけは道草をしなくてはいけないので10分余計にかかってしまう。道端にカタ(バラ科、野イバラの仲間)の黄色い実が鈴なりに実り、この自然が生みだす豊穣な甘味が僕の足を止めて手を伸ばさせるためだ。別にライバルがいるわけでもないのに、焦りながら一心不乱に子供のように食べてしまうのは何故だろう。背中をタクシーが次々と通り過ぎていく。しかし、ある時、僕が手を伸ばして食べようとした実を、先に食べてしまうライバルが出現した。向こうも一心不乱なせいか、こんなに接近しているのにまったく気がつく気配をみせない。いや、そのセリフは逆に僕に向けられるべきものかもしれないが。
小鳥と一緒になってカタの実を啄ばんだ、不思議で、かつ豊穣な一時。カタから見ると、きっと僕も小鳥も同じように映っていたに違いない。
そんなある日、日本の友人が伝染病(チフス)に罹って倒れてしまった。彼の住まいがこの道沿いにあったことから、僕は毎日のようにレストランから日本食を運んであげたものだった。“チフスの館に食事を運ぶダラムサラのマザーテレサ”と思って感謝しなさい、と冗談を飛ばしながらも、当然自分も感染する危険がある。そこで、この時期がちょうど5月だったことから、僕は例年以上に意識してカタの実を食べつつチフスの館へと向かった。カタの樹皮は伝染病に効果があるとされることから実にも同じような効能はあるだろう。少なくともビタミンCが抵抗力を高めてくれるのは間違いない。
カタ ダクキャン デシン リムラ ペン
カタも(レテという薬草同様にルンの熱や)伝染病に効果がある
四部医典 論説部第20章
そしてカタのおかげか分からないが僕は感染することなく友人も無事に回復することができた。でも心の底では、僕は感染しないだろうという自信があったし、事実この6年間、大きな病気を全くしていない。その自信の根拠は何かと思いを巡らせたとき、幼馴染のこんなエピソードが浮かび上がってくる。
富山の医学部に進学した幼馴染は授業の一環で老人ホームを慰問し、そこで聞き覚えのある珍しい姓の老婆に出会った。
「あのーもしかして、戸出西部保育園にいらしたT先生じゃありませんか」
「ああー、そうだよ。懐かしい名前を言ってくれるねー」
少し痴呆が始まっている老婆と幼馴染は記憶の糸を手繰るように保育園時代の話に花を咲かせ、最後にポツリとこう呟いたという。
「そういえば小川っていう汚い子がいたねー。いつも鼻を垂らして泥んこだったよ」
先生が世話をした何百人、何千人という多くの子供たちの中で、何故、小川だけが先生の脳裏に浮かび上がったのだろう。しかも小川の同級生だったというのは全くの偶然。正月、故郷で幼馴染と酒を交わしながら彼は不思議そうに語ってくれた。確かに、僕はT先生に毎日のように怒られていたものだ。保育園に着いたときにはすでに道草で遊んだために泥んこで「家に戻って着替えてきなさい」と言われたのを覚えている。道草が好きなのは今も昔も変わらない。
きっと僕の抵抗力はこうして築き上げられたのだろう。あの時の道草が、いまこの道草に繋がっているんだ・・・。そもそも医学というのは東洋、西洋を問わずして、こうして道端の草木、果 実を口にしたことから始まったのではないだろうか。道草の楽しさを伝えることもチベット医学の一つかもしれない。
もしよかったら、今度、ダラムサラで一緒に道草をしませんか。
追伸 2007年3月28日、今年初めてカタの実を食べました。まだ少し酸っぱかったです。