正月に、井上ひさしの「日本語教室」(新潮新書)を読んだ。その冒頭で「理科系の作文技術」(中公新書 木下是雄著)について触れられている。学習院大学名誉教授で物理学者の木下是雄氏が、弟子達が英語で書こうとしてもぜんぜん書けないので、何故かと、さんざん観察するうちに、そもそも彼らは日本語を知らない、ということに気がついたというのだ。
本を読まなくなったテレビっ子世代
「理科系の作文技術」は、1981年の9月に出版されているので、この日本語を知らない学生たちとは、丁度、私の世代のことだろう。小学校入学前から家庭にテレビが入り始め、その影響で、本を読まなくなった最初の世代である。私も、学校から帰って来るや否や、ランドセルを投げ捨てて、すぐ遊びに行き、帰ってくるとテレビをつける。勉強は、テレビの合間。ひどいときは、テレビを見ながら宿題を片付ける。そんな毎日だった。本など、全く読まなかったから、中学校では、国語の先生から「本を読みなさい」と散々言われた。井上ひさし氏は「日本語教室」で、アヴェロンの野生児などの例から15歳ぐらいを過ぎるとどんな言語も覚えることはできない。言葉は、脳が生育していく時に身につくものだ、と指摘している。
「日本語を知らない」とはどういう意味か
ところで、ここでいう「日本語を知らない」とはどういう意味だろうか。文法が滅茶苦茶で、語彙が乏しいということだろうか。おそらくそうではないだろう。同著の紹介を読むと、美しい文章ではなく、徹底して分かり易い文書を書くにはどうしたらいいかを具体的に指南した本であり、「盛り込むべき内容を取捨し、それをどう組み立てるかが勝負だ」と著者は主張しているという。要するに、日本語を知らないとは、伝わる文章がかけないということである。確かに、そうだ。読書量が豊富な人でも、状況分析に基づいて問題点を整理し一定の結論を導くような文書を書かせると、個々の段落の文意は通るが、全体では、非常に不明瞭な文章になってしまう場合が多い。結語も「であろうと考えられる」、「という場合もなくはない」、「もっとも、○○というケースもあるから一概には言えない」といった曖昧な表現の連続でスッキリしない。更には、あれこれ補足説明を重ねるから逆に分かり難くい。「いったい何が言いたいんだ」と読み手は苛々してしまう。
帰納法から演繹法への転換を
これは、多くの事例から普遍性を導こうという帰納法的な習慣を持つ人が増えたからだと私は思う。情報がこれだけ多いと、帰納法では結論が出ない。全ての事例を知ることなど不可能であり、世の中の本を全て読むことなどできるはずがない。むしろ、数少ない事象の中から本質をつかみ取る演繹法的な思考が必要だ。その習慣を身につけて、自分の考えをしっかり作ることこそが重要である。それができたら、自分の考えを軸に様々な事象を演繹し、自分の考えにも修正を加えていけばいい。
話し言葉中心では、人間そのものまで曖昧にする
また、話し言葉が中心になったことも、文章を曖昧にした原因だと思う。喋る場合は、論理矛盾があったり、順番がおかしくても、聞き手が、再構成して内容を理解することができる。それと同じ感覚で文章を書くものだから、不明瞭な文章になってしまう。テレビが普及しだした私たちの世代から、情報量が爆発的に増え、話し言葉が多用されることが顕著になった。だから、木下是雄氏が嘆いたのであろう。もちろん、昔だって話し言葉は、曖昧だったはずだが、形式に当てはめる「書き言葉」を使うことで論理性を確保していた。私見ではあるが、書き言葉をやめて、話し言葉をそのまま文章にして使うようになった時から、日本人の文章は、残念かな、論理性を失う運命を辿ることになったと思う。ことは、文章に留まらない。文章が論理性を失うとは、即ち、日本人の考え方そのものも論理性を失い曖昧になったという証である。考え方が曖昧になったということは、人間そのものが曖昧になったということだ。最近の政治家を見ていてそれを実感する。
自分の考えを文章にする訓練が必要
私は、中学生の頃「一週間の記録」を書いて担任の先生に提出させられていた。勉強などが計画通りできたか日々反省するといった日記の様なもので、ちょうど能率手帳のようなフォーマットをしていた。私は、そんな形式は全く無視して、ページ一杯に自分の考えを書きなぐって提出していた。先生は、簡単に一言二言、感想を書いてくれるだけだったが、これが、自分の考えを作る態度を身につける訓練になった。当時は自覚がなかったが思春期に文書を書くことはとても大切なことである。
私の長男に「理科系の作文技術」を読んだか尋ねたが読んでいない。英語が書けない学生の話をしたら、「そんなの当たり前だよ。日本語ができなきゃ英文だって書けるはずないさ」と言っていた。この本は、2012年の『東大教師が新入生にすすめる本』(東京大学出版会『UP』編集部編、東京大学出版会)では5位にランクインされている。早速、読んでみようと思う。
※風通信・特別増刊(2013年春号)より転載