金華山を後にして石巻に向かった。私は3.11の後、その年の7月に石巻を訪れたが、そのときの日和山公園から見た街の姿はまだまだ津波の跡が生々しく正視するのが辛かった。震災から2年。果たしてどれくらい復興しているのだろうか。
今回は一般社団法人BIGUP石巻の原田豊さんに案内をお願いした。金華山黄金山神社の支援の関係で紹介していただいたのだが、大変ガッツのある若者で、「金を儲けるだけじゃあやってられないでしょう」、「なんか東北に支援に行くしかないでしょう。行けって言われているような気持ちになっちゃったんですよ」、「こちらに来てから考えられないくらい大勢の方と知り合いになりました」、「すごい体験ですよ」
彼は仮設住宅ではなく、自宅を補修してなんとか暮らしている被災者の方々の支援に入った。最初にやったことはなんと“花壇作り”。被災者の人たちが花を見てほっとするそんな空間を作りたかったそうだ。今でも公園に花を植えたり、遊具のペンキ塗りをしたりしている。
支援に入ったコミュニティーの中で、家賃なしで借りた一軒家を事務所にし住民に開放してコミュニティー作りも進めている。もっと人が集まれる場所作りをしたいとカフェも始めるという。なかなか精力的だ。
支援が生活に変わっていくとき、その質を維持しながら形態をどう変えて行くのか。そこの線引きが難しいに違いない。頑張ってほしい。
石巻の市内の瓦礫は大方片付き、草も何も生えていない土の平地が広がっていた。大川小学校に行った。津波にやられた校舎がひしゃげた姿をそのままに残し、慰霊碑が建っていた。児童108名中70名が死亡、4名が行方不明になった同校のことはマスコミでも繰り返し報道された。
どうにもいたたまれない気分になった。原爆ドームと平和公園に行ったときに感じたあの感覚と同じだ。この地で多くの人が亡くなった姿が想像された。神妙に手を合わせ祈った。
3.11ではこの学校だけじゃなく、避難場所のはずの建物で被災し亡くなった人が大勢いた。結果論ではあるが、この学校を津波発生時の避難場所に指定していたことが悔やまれる。確かに、新北上川の河口から約5kmも離れていたからか津波はここまでは来ないと考えたのだろう。誰を責めるでもない。私達はみんなで過去を検証することを怠り、自然の脅威を恐れぬ愚かなことをやってきてしまった。そのことにもっと自省の念が必要だ。
気仙沼までの海岸沿いの狭い入り江の集落は悉く津波にやられていて、瓦礫もまだ結構残っていた。「石巻の方がまだましだなあ。かなり差があるなあ」そんな原田さんのため息に、なかなか進まない復興への苛立ちを感じた。
原田さんには夕方までお付き合いいただいた。この場を借りて御礼申し上げたい。5/1日には、多摩川の川原で開かれるメーデーの集会場で石巻の物産を販売しに上京するそうだ。また元気な姿に会えそうだ。