「三十里営房」という、軍隊臭い名前の付いた、バラックのような街を後にする。
チベット(西蔵)と新疆ウイグルを結ぶ新蔵公路。 この三日間突っ走ってきたこの道路とも今日でお別れだ。 目指すはカールギック(叶城)、そしてあの中央アジア・イスラムの大都市、カシュガル。
アリ(獅子河)と呼ばれる、西チベット最大の都市をあとにしてから、これまで二日間、チベット文化の徴(しるし)を見かけることはなかった。 ゴンパ(僧院)はもちろんのこと、カラフルなタルチョも峠にかかっていない(何とも寂しいことか!)。 時々通過する「街」と呼ばれるところには、コンクリート(ひどい場合にはベニヤ板)製の非常にちゃちな造りの建物が無作法に並んでいるだけである。 漢民族が軍人やトラックの運ちゃん相手に宿屋や売春宿、レストランを経営しており、こんなところでも商売してるんやなぁ、とあきれるどころか心から敬意を表したくなる。
そしてこの(三十里営房までの)新蔵公路、もちろん新疆のイスラム的な痕跡も一切なく、目に入るものといえば、雪山を背景にポツリとたたずむ人民解放軍関連の建物や、紅色のプロパガンダを正面につけて行き交う軍用トラックの列だけである。 まさに「無色」、「無臭」の「無文明」地帯、といってよい。
それもそのはずである。
チベットは歴史的に中華文明、そしてインドの精神文明の辺境であった。 そして、今新疆ウイグルと呼ばれている地域は、中華、そしてイスラム文明の辺境として存在してきた。 チベットもウイグルも大文明の辺境同士で、「その辺境の辺境」となると言わずもがなである。
それだけに、この「どこでもないような場所」を三日近く通ってきただけに、カールギック、そしてカシュガルに着いたときの衝撃は大きかった。
(新蔵公路沿いの川辺に野生のラクダ)
都市と呼ばれる場所に我々はこれまで二週間ほとんどいなかったせいもあろう。 お客さんはいたって平常そのものの様子であったが、僕は完璧に田舎者状態であった。 レストランに行けば、ウイグル名物のラグ麺やシシケバブがこの世のものとは思えないものほどおいしかった(この二週間、中華の炒め物ばかり)。 ホテルに着けば、それはアラビアンナイト風の建物で、これまで三日間、「独房」のような天井の低い、小部屋に泊まっていた僕には身分不相応の入れ物に見えた。 そして、街を歩けば、明らかにチベット・漢民族離れした顔立ちの女性がカラフルでスタイリッシュな服を身にまとい、ブーツを履き、颯爽と歩いている。 どこに目を向けても、僕は瞳孔が開きっぱなしであった。
(ラグ麺)
(カシュガルで泊まったホテル[色満ホテル]の渡り廊下)
まるでその新疆とチベットの境の「どこでもない場所」がブラックホールの通路ようになっていて、そこから抜け出た我々は、知らないうちにワープしてしまっていて、どこか異国に辿り着いたような感じであった。 その感覚をさらに強くさせたのは、カールギックやカシュガルには、中華でもイスラムでもその「混成」でもない、歪で不思議な光景が広がっていたためである。
以下僕のフィールド・ノートから引用する。
トルコ系の顔立ちの人間が漢語を操る「不自然さ」−。 (僕が生まれて初めて行った外国はトルコであったが、処女旅行だけにイスタンブールでの「トルコ体験」の記憶は生々しく)、その記憶がカールギックにいる間、まるで三半規管がやられたような感じを僕に与えつづけていた。 明らかにカールギックは中国の都市空間のそれだが、トルコ系民族がその空間の中で、漢語を話しながら当たり前のように歩いているのはとても不思議に見えるのである・・・
・・・ まるで、神さまのいたずらか何かで次元が歪められて、この二つの異質な文明が一つの箱に無理矢理押し込められたような感じである。 そしてその二つの文明のディスコースは、あまりにもはっきりと区別された形で人々の容貌、身のこなし、服装、歩き方、そして街の空間の隅々まで深く刻み込んでいる。 折衷する手がかりが全くつかめず、お互い滑り込むようにして中華とイスラムが縞の目模様を作りながら流れ込んでいるといってもよいかもしれない・・・
あらゆるものが輝いて見えた。と同時に、(何かしらの「奇形」を見たかのような)ちょっとした眩暈(めまい)がしたのも事実である。 でも、この眩暈が迷惑千万な単なる眩暈ではなく、これからのウイグル滞在の楽しみの種になっていくことだけは分かっていた。
つづく
Daisuke Murakami
11月12日
(ラサの)天気 晴れ時々くもり
(ラサの)気温 −1〜11度 (朝・晩は特に冷えます)
(ラサでの)服装 ジャンパー、コート、長ズボンが一般的です。日焼け対策、風邪対策は必須。 空気も非常に乾燥しています。