日本に一時帰国してはや一ヶ月。
ラサに戻るまであと一ヶ月。
予期せず、今は東京にいることが多くなっている。
そして東京は、ほんとうに不思議な街だとつくづく思う。
住宅街を歩いていても、繁華街の看板をみていても、
混んだJRの電車の中で吊り革を持って立っていても、
喧騒と静けさが同時に充溢している、
その秩序めいた「生き物の息吹」のようなものを感じるのだ。
ゾクゾクしてくるというか、その「モンスター」の正体がいったい何なのか、
非常に興味が湧いてくる。
以前も同じようなことをこのブログで書いたかもしれないが、
東京に来るたびに、憑かれたように執拗に同じテーマを考えてしまう。
まぁ、病気みたいなものだ(苦笑)。
「社会物理的高密度」のなかで、個として生きるとは、一体どういうことなのか?
「首都に住む」とは人間にとってどういう意味をもつのか?
都会の無秩序の中心に宿る、ある種の倫理 ―法律や社会性、習慣などとは違った理(ことわり)―
を支えている、その当のモノは一体なんなのか?
これらは、大阪に住んでいる時はもちろん、
ラサやロンドンにいるときさえ、あまり意識したことのない問いである。
そしてそれは、ナンセンスな問いでもある。
なぜなら、答えのない問いだから。
答えが存在しない問いを問うても、もちろん答えは出ないのであるが、
その探求の道のりのなかで、その道草の中で、
なにかしら本源的ななにかが仄(ほの)かにみえるときがある。
「問うこと」を生業としている人間(研究者を含む)にとって、
そういう瞬間にたくさん立ち会えれば会えるほど「幸せ」となる。
(東京駅)
ところで、先月以来、あるサイト(下記参照)で、
僕の書いた論文が一本、一般公開されている。
それは、現代のラサで急速に広まった信仰、
「財神」タプチ女神の信仰の流行について考えたものである。
ラサという急速に経済発展する都市空間のなかで、この女神がなぜ選ばれ、
どのようにしてチベットの大衆に熱狂的に支持されるに至ったか、
その信仰の「発生の秘密」について答えようとするものである。
学問的価値はどうあれ、この論文を書き上げた時、
なんだかやっと自分が描きたい世界が少し描けたような気がした。
以前から不思議に思っていた<土地の匂いそのもの>について
ラサを題材に自分なりに探求できたからだ。
大地というモノが、いかに都市空間に深層レベルで秩序を与えているか―。
これは、「大地の記憶」とか「アースダイバー」などというキーワードで、
今では広く日本で紹介されているが、
厳格すぎる学問世界では残念なことに、
「神秘主義」だとしてあまり相手にされない領域となっている(ような気がする)。
土地という「無機質」なものに、”agency”つまりは「意志の力」を認めることになるからだ。
(タプチ女神。すごい形相だが、彼女が人間だったときは、非常に美しい女性だったという。。)
なので「論文」にするには、ある種の方便が必要となってくる。
僕のタプチ論文では、その方便とはまず第一に、
日々汚染されてきているラサの薄い空気を、思いっきり深呼吸してきたことであり(苦笑、
でもラサには計八年間住んだ。)、
第二に、(「アースダイバー」が見据えるよう)「三千年」「三万年」という長いスパンではなく、
(タプチ発生の)「三百年」という、比較的感知可能な時間スパンであったので、
土地の匂いをたくさんくんくん嗅げたことであった。
そして、「英語で書いた」というのも、案外、隠れた方便なのかもしれない。
(僕は日本人なので)文学的な表現のできない英語で書く方が、ボロがでにくいのである、笑。
つまりは外国語の英語で書くとは、「言い回し」や「レトリック」などではなく、
「論理」や「データ」でハードにガンガン攻めることを必然的に求められるのだ。
さて話は変わりますが、
今週末はいよいよ、風のカルチャ―の「東北・金華山の復興ワークキャンプ」です!
僕にとって東北は未知・未踏の土地でした。
初めて訪れたのが、今年の春。
震災について、そして東北について、いろいろ考えさせられる旅となりましたが、
今回のキャンプでは、長年東北に深く関わってこられた「先達たち」の思いに触れる
貴重な機会となるでしょう。今からとても楽しみです。
今週末は、金華山でお会いしましょう!
Daisuke Murakami in Tokyo