第3話 テンジン君[LADAKH]

スタンジン君へのインタヴューが終わったあと、私が泊まっているホテルまでレーで旅行会社を共同経営しているチベット難民のテンジン君が尋ねてきてくれた。彼の名前は、テンジン・クンガと言うので、テンジン・クンガ君が尋ねてきてくれたと早口言葉のようになってしまう。(前回紹介したスタンジン君と同じチベット語のつづりだが、スタンジンという発音は、ラダック方言である)。去年のへミス・ツェチュのツアーのとき、現地ガイドとして参加してくれた。一年ぶりの再会だった。

テンジン君にも、インタヴューをした。

テンジン君

私 チベット難民だけど生まれはラダックですよね?
テンジン君(以下 テ)父はラサ出身で、母は南チベット出身です。わたしは、レーで生まれ育ちました。30才です。小中学校はレーに近いチョグラムサルというチベット難民の集落にあるTCV(Tibetan Children Village)に通いました。高校はダラムサラのTCVへ行き、卒業後デリー大学の商学部に入りました。

私 日本語はどこで学んだのですか?
テ 大学卒業後、亡命政府で海外派遣の研修生を募集したとき選考試験に50人中一番でパスして日本への研修のチャンスを得ました。研修先は香川県にあるOISCAで、一年間、日本語と農業技術を研修しました。このときは朝5時から夜8時まで勉強しました。

私 たった一年でこれだけ喋れるようになるなんて大したものですね。日本で印象に残ったことは何ですか?
テ 各国の研修生たちとお遍路をしたことです。八十八箇所全部は回りませんでした。いっしょに回ったメンバーには、フィリピン人、タイ人、インドネシア人、マレーシア人、パプアニューギニア人たちがいました。
広島の原爆ドームを見たときには、とても悲しくなりました。
宮島へ観光に行ったとき、8ヶ月ぶりでチベット人の僧侶と会いました。このときは、日本語を熱心に勉強していた時期だったので、チベット語がうまく喋れませんでした。盆踊りや、徳島の阿波踊りにも参加しました。一緒になって踊りました。難しいと言われたけれど、チベットの踊りに比べれば簡単ですぐ踊りを覚えましたよ。

私 日本からインドへ戻った後、何をしましたか?
テ 残念ながら亡命政府では、農業技術を活かす仕事を得られませんでした。そんなときに、古くからのラダックの友人に誘われて、彼が設立した旅行会社の経営を手伝うことにしました。すでにデリー大学時代、夏休みにトレッキング・ガイドの仕事の経験がありました。

私 旅行業は好きですか?
テ はい、楽しいです。その理由は、他の会社で働くよりも自由時間が多く、いろいろな国の外国人といっしょに仕事をすることができ、そして何より儲かることです。
トレッキングは、かれこれ30回以上しました。登山のガイドもしています。6125mのストク山や、6400mのカンヤツェ山を登頂しました。会社では、ラフティングやお寺の巡礼も扱っています。

私 日本に一年いたり、ラダックで日本人のお客さんとも会っていますよね。日本人の印象はどうですか?
テ 日本人のよいところは、仕事に忠実で時間を守るところですね。弱点は、はっきりとNOと言わないところです。インド人の商人が、「日本人は一番だましやすい」と言っているのを聞いたことがありますよ。

私 チベット人と日本人の違いはどんなとこにありますか?
テ 一般に、チベット人は、情が深くて自分のことより、家族とか友人を大事にします。家族の年長者だけでなく、他人の子供にも大人がきちんと道徳を教えるので、子供のころからとても信心深いです。わたしが日本にいたときに一番驚いたのは、農業研修のときに先生に「畑の虫を殺せ」と言われたことです。それまで日本人は仏教徒だと思っていたので、とてもショックでした。