文・写真●岡林 立哉
ホブド県のアルタイ山脈
モンゴル。その広々とした草原を旅するとまず感じるのは圧倒的な静けさだ。
風の音、耳のそばを飛び過ぎる羽虫の羽音、空中をホバリングしながら飛んでいるバッタの羽音、そんな小さな音のほかは何もない。ただただ静かだ。風の無い夜、満天の星空の下に寝転がれば、宇宙の果てまで静寂が広がっているような錯覚にとらわれる。
そんな静寂の中で生活する遊牧民。彼らの生活から聞こえて来る音は自然の中に調和した音だ。馬を追うとき、羊やヤギを集めるとき、牛を追い立てるとき、彼らは声色を替え叫び声を使い分ける。僕ら日本人が出すことのない声。それは言語が発達するずっと前から使われてきた人間の鳴き声なのではないか? などと想像してしまう。馬を走らせる時の掛け声、直後に起こる馬の蹄の力強く大地を蹴る音。ゲルの屋根に降る雨の音。天窓の覆いが風ではためく音。馬に乗って移動する遊牧民が遠くで唄っている歌声。すべてが自然の中に調和していて、印象的だ。自然と調和する声、歌とはどんなものだろうか? モンゴルの人たち、特に遊牧民の歌声は、その人の話し声に限りなく近い声だ。彼らは彼ら自身の生まれ持った声で、彼ら自身の生活の根ざした歌を唄う。モンゴルの草原で聴いて気持ちのいい歌は一流歌手の美しい歌声よりも、遊牧民たちの何気ない歌声だろう。
1999年9月、僕はモンゴル西部のホブド県へと旅した。お金を安く済ませるという現実的な理由もあったが、できるだけ現地の人と同じ方法で旅をしたかったので、僕は陸路で西へ向かった。ウランバートルからホブドまではおよそ1,500km。そのほとんどが未舗装の道路だ。途中、ゴビアルタイの中心アルタイで車を乗り換えて、ホブドに着いたのは4日目の深夜という長旅だった。
車の前を悠々と渡る牛の群れ
ウランバートル中心部から西へ少し行ったところ、ガンダン寺の南にある長距離バスターミナル。アルタイ行きのロシア製ワゴン車・プルゴンに乗り込んだのは朝10時頃。乗客が集まるのを待つこと数時間、午後もだいぶ経ってようやくウランバートルを出発した。荷物と人とで身体を動かすことも出来ないほどの車内で、誰一人文句も言わず、未舗装な草原のでこぼこ道を砂埃を上げながら延々と走り続ける。9月のモンゴルはすでに草は枯れてしまい、荒涼とした大地がどこまでも続いている。夕方になり、車は道を離れしばらくしてゲルの前に停まった。どうやらここで食事をするらしい。家のおばさんが料理を作っている間に、同乗していた男が「馬頭琴を聞かせてくれよ」と言う。僕は車から馬頭琴を出すと、覚えたてのモンゴル民謡を弾いてみる。すると馬頭琴にあわせて誰からともなく唄いだす。それからは「この歌は弾けるか?」「この歌は?」などと僕の知らない歌をどんどん唄いだす。運転手はさっきから馬乳酒を飲んでいるようだ。ゲルの家族も僕の馬頭琴やホーミーを聴きに集まってきた。片言しか話せない僕のことを興味深そうに見ているのが分かる。いつのまにかゲルの中は宴となっていた。どれくらいそこにいただろうか。食事を終えてゲルを出る頃にはあたりはもう真っ暗だった。お金を払うときに、誰かが僕はお金を払わなくて言いといいだした。そして、「ウヌグイ ホール イドスン バヤルッラ(ただでご馳走になりありがとう)」という言葉を教えてくれた。車に乗り出発してしばらくは、さっきの宴の続きでみんな歌を唄い続けていた。僕は気に入った歌があるとカセットテープに録音した。やがてみんな眠りにつき車内は静かになった。プルゴンは夜通し走り続けた。僕はモンゴルの人たちの生の歌に触れた興奮と、慣れないでこぼこ道、窮屈な車内になかなか寝付けなかった。
それから先の道中、食事で遊牧民の家に立ち寄るたびに僕は馬頭琴を弾き、みんなは歌を唄った。田舎の人たちは僕の馬頭琴に感謝の意をこめて青い神聖な布・ハタグを巻いてくれた。旅を終えてウランバートルに帰り着く時には僕の馬頭琴はたくさんのハタグのために弾くことができないほどになっていた。僕はモンゴルの人たちの知っている歌の多さに驚き、彼らの唄う歌の素晴らしさに感動した。
僕にとってモンゴル民謡との出会いの旅となったこのモンゴル西部への旅、当初の目的はホーミーのルーツを求めての旅だったのだ。モンゴルの音楽といえば、まずホーミーを思い浮かべる人も多いと思う。僕もモンゴルへ行く以前から、一人の人間が2つの音を同時に出すという不思議な唄い方、ホーミーに興味を持ち、モンゴルへ行ったら是非、本物を生で聴いてみたい、チャンスがあれば習ってみたいと思っていた。
このホーミー、初めて聴く人やよく知らないで聴く人には、初めはその低音部、うなり声ばかりが聞こえてくる。ところが、しばらく注意深く聴いていると、なにやら高い口笛のような音がどこからか聞こえているのに気づく。楽器とのアンサンブルでは、この笛のような音がホーミーの高音だと気づくのはほとんど無理で、楽器の音か何かと思ってしまうだろう。実際僕も初めて生でホーミーを聞いた時、充分な知識があったし、CDで、その音には馴れ親しんでいたにも関わらず、目の前で口をほとんど動かさず開けたまま唸っている男から、この笛のような高音が出ているとは信じられず、あたりをきょろきょろと見回して音の出所を探したのである。音が男の口からではなくどこか違うところ、どこかは分からないところから聴こえてくるのだ。自分が音の中に入ってしまっているような、空間全体が響いているような、そんな感じだ。ホーミーの真の不思議さ・魅力は単に一人の人間が2つの音を同時に出す、というだけではなくその音色そのものと響き方にあると僕は思っている。
では、ホーミーとはいったいなんなのか? どうやって奏でるのか? うなるような声でドローン(持続低音)を出し、同時に高い笛のような音でメロディを奏でる。お坊さんが読経する声、あるいはお寺の鐘の音を想像してほしい。低く太い声・音と一緒に高くて細い音がかすかだが、何種類も響いているのが聞こえてくるはずだ。これが倍音というやつだ。音は物体が振動することによって鳴る。いろんな周期の波・倍音が重なり一体となって一つの音を作っている。声帯で作った声を胸や喉、口、鼻などの空間を利用して特定の倍音を共鳴させる、これがホーミーの仕組みである。
ところで、モンゴルの遊牧民はみんなホーミーをするのだろうか? 答えは否。ホーミーとはもともと、モンゴル西部の山岳地帯に住む少数部族の語り部のような職業歌手の間で伝承されてきたもので、普通の遊牧民はホーミーはしないのである。
昨年ウランバートルの某劇場にて、観光客向けの民族音楽アンサンブルのコンサートを見た。馬頭琴をはじめ歌や踊り、様々な伝統芸能が見られて、美しく興味深いものだったのだが、残念ながらホーミーの音をマイクで拾ってしまっていたために、その魅力を充分に伝えていなかった。
モンゴル西部の山間の小さな村で聴いた一人の少年のホーミー。彼のホーミーは、音の結晶のようにキラキラとした質感で、ちょうど夜空に輝く星の瞬きのように、モンゴルのどこまでも静かな空気の中で響いていた。
舞台芸術やCDでは決して伝わらないものがある。遊牧民たちの唄う歌声、そしてホーミーはモンゴルの自然の中、その静けさの中で一番魅力的に響く。
「風通信」40号(2010年6月発行)より転載
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