メンツィカン病院にチベットから亡命したばかりの遊牧民が訪れた(2008年)。脈診をすると、あり得ないほどに脈が堅いことから「ときどき頭痛がしませんか」と問診した。すると「そのとおりです」と男性は驚いていたが、特段に高度な脈診技術を駆使したわけではない。定期健康診断が日本ほどに施行されていないチベット社会では(日本ではあり得ないほどに)病が極端に進行した患者が多いために異常が脈に現れやすく、したがって脈診の有意性が得られやすい。とはいえ実際にはほとんどの患者において脈に大きな異常は見つからず、つまり脈診は大きな病はないことを確認するにとどまることが多い。
ところが困ったことに「アムチは脈(チベット語でツァ)の診断だけで過去の病歴などすべてを見通すことができる」と信じて手を指し出し黙ったままの患者がたまにいる。圧倒的に外国人が多い。参考までに八世紀に編纂された四部医典には「初診の患者には必ず問診を行いなさい」と記されており、メンツィカンの先生は授業中に重要点として強調されていた。脈診だけで病のすべてが見通せるか否かの技術論はさておきたい。ただチベット人にはアムチの腕を試す患者はほとんどいないことだけは確かである。多くのチベット人患者はアムチに敬意を示し最初から「ここが痛いです」と教えてくれる。仮に脈診が外れたとしても信頼を失う恐れは、少なくとも僕の場合において、チベット社会にいる段においてはなかった。
患者の脈を毎日診ていると、脈診はちょっとした行動や心の変化や食事によって影響を受けるため、病の情報を得るには意外と不確実性が高いことがわかってくる。特に午後になると正確な脈診は難しくなる。四部医典には「肉、魚、栄養過多、消化不良、冷たいもの、過食、空腹、房事、不眠、多弁、心労、過労は脈を混乱させる」また「空に日が昇り、谷にはまだ光が届かず、体内の息の温もりが外に漏れていないときが脈診に適している」とあり、チベット民衆にはこうした脈診の心構えが(完璧とはいかなくても)慣習として受けつがれている。つまり尿診(第269話)と同じように、脈診は医師と患者との共同作業によってはじめて成り立つといえる。
次に脈診で胆石を発見することで有名なA先生の事例を紹介したい。四部医典には「(胆石など)結石の脈は曖昧で弱い」とあり、現代医学においても「元気なわりには脈が不自然に弱いことがある」とされ見解は一致している。街ではA先生の名声とともに「胆石の精密検査を受けたけれど何もなかったよ」という批判も数件だが耳にしていた。A先生曰く「確かに10人に精密検査を勧めて胆石が発見されるのは一人か二人だからね。でも検査にはお金も時間もかからないし、一人でも早期発見できたら上出来ではないですか」。なるほど、と納得させられた。100発100中を期待させる外国発の『チベット医学』の読者からは物足りなく映るかもしれないが(注)、間違いなくA先生は脈診の名医といえる。
ダチュ先生の教えも印象に残っている。ある患者の脈はとても弱く沈んでいた。しかし先生は「この患者の血圧は高いはず」と予言してから測定すると実際に180近くもあった。脈診の感触では血圧が低そうなのに実際は高い、またはその逆においては血管、心臓系に重大な病が隠れているとされる。これは四部医典の「ベーケン(水)脈と慢性的な血液病の脈は、どちらも沈む性質があるため取り違いやすい」に対応している。また、左右の脈に大きな違いがある場合は心臓病もしくは血管の病が疑われ、一年を通して一件だけだが大動脈乖離を判別したことがあった。こうして現代医学の病院での精密検査へとつなげることができ、結果として脈診が大きな役割を果たしたことがあった。
脈診は聴診器のようなものだと僕は思っている。つまり聴診器と同じくらいの情報を得られ、聴診器と同じように最先端の医療機器には敵わない。でも聴診器と違って医師の温もりを伝えることができる。患者の温もりを感じることができる。脈に触れながら診察をすると患者が次第に心を開いてくれる感じがして患者との会話が弾み、結果、貴重な情報を得ることができていた。だからこそ日本のお医者さんたちも聴診器とともに、(東洋医学的な難しい理論はさておいてでも)患者の脈に触れながら問診をしてみてほしい。
注
1970年以降、海外で発刊されてきた『チベット医学』関連の書籍によって、チベットの脈診、尿診が神秘化された経緯がある。