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飯田山岳会がネパールヒマラヤのシャルバチュム(サルバチョメ)に世界で初めて登頂してから60年。これを記念し、南アルプスの山岳文化を後世に伝えていくために設立された(一社)南信州山岳文化伝統の会が、飯田出身の登山家・大蔵喜福さんとネパールトレッキングを楽しむツアーを実施します。
コースはかつてイギリスの探検家・ティルマンが「世界で最も美しい谷」のひとつと称したランタン谷。訪れるトレッカーは少なく、誰もが知る有名な山はないものの、6,000m~7,000m峰が間近に聳え眺望の良さは抜群。「何しろヒマラヤが近い!!」というのがお勧めポイントです。
鬱蒼とした樹林帯から歩き始め、草原帯を抜け氷河の間近まで、日々景観や植生がダイナミックに変化します。最奥の村キャンジンゴンパからキャンジンリ(4,550m)へ登ると、シャルバチュムはもちろん、秀峰ランタンリルン(7,245m)の全容とリルン氷河をはじめ、ランタン谷の山々が聳えます。時期柄、ネパールの国花・シャクナゲの開花もお楽しみいただける事でしょう。
復路はヘリコプターでカトマンズまで一気に戻り、時間短縮とともに空からのヒマラヤ展望も楽しむ充実企画です。
同行者プロフィール
登山家
大蔵 喜福 (おおくら よしとみ)
1951生。‘79年秋、世界初のヒマラヤ縦走登山(ダウラギリⅡ・Ⅲ・Ⅴ三山)に成功。その後、‘86厳冬期チョモランマ北壁に挑戦。打ち立てた最高到達記録(8,450m)はいまだ破る者はない。ネパールは50回ほど訪問し、8,000m峰7回登頂を記録する。アラスカ大学マッキンリープロジェクトを30年継続した「風の研究」では‘00年第三回秩父宮記念山岳賞を受賞、登頂は27回を数える。ネパールヒマラヤをはじめ世界の山岳自然環境に造詣が深く、NPO山の自然学クラブ理事長を務める。
シャルバチュム登山の偉業
第二次世界大戦敗戦による日本国民の自信喪失を取り戻す出来事の一つだったマナスル初登頂は、1956年(昭和31)に国策ともいえる性格をおび、日本山岳会により成された。その3年後の今から60年前、登山界に一つのエポックが生まれたことはあまり知られていない。
1959年(昭和34)、南信州のある山岳会がヒマラヤを目指す登山隊を送り出した。ヒマラヤを標榜したのは飯田山岳会。旧制飯田中学校と新制高校(現・飯田高等学校)の山岳班を母体にOB有志が卒業時の’50年(昭和25)に創設。母校創立60周年記念事業として企画され、ランタン・ヒマール学術調査隊とし、未踏のシャルバチュム峰6918m登山とランタン谷の調査を実施した。
隊長山田哲雄(28歳)以下、北城節雄(27歳)、寺畑哲朗(26歳)、松島信幸(28歳)、新井均(24歳)隊員、報道笠井亘(39歳、中日新聞記者、撮影)6名からなる登山隊は当初、ランタン・ヒマールの盟主ランタン・リルンを目指したが、現地で登頂困難と判断し第二候補のシャルバチュムに変更、10月25日北城、寺畑両隊員とシェルパのダワ・トンドゥップ、パサン・テンバの4名が初登頂に成功する。我が国の社会人山岳会として初めての快挙であった。
報道を除くと、隊長、隊員5人の平均年齢は26.6歳という若さ、敗戦後の混乱期に青春をすごした彼らの情熱はすべて山にあった。ただ登るだけでなく地質、動植物、高山気象と自然を学ぶ姿勢も貫き、学術調査という当時のヒマラヤへの夢に近づくために必要な資質も身に付けていた。
’50年代後半は一地方の社会人山岳会が単独でヒマラヤに挑むには、まだまだ困難な時代であり、飯田山岳会はそれを最初に乗り越えた社会人山岳会となった。ヒマラヤ登頂の記録でもわが国4番目という壮挙は登山史に輝く。
執筆:大蔵 喜福
勤労者山岳連盟「登山時報」、白山書房「山の本」掲載コラムから抜粋・引用