あれから30年

ベルリンの壁が崩壊して30年。この30年間を振り返る特集がテレビなどで幾つも組まれている。 1989年11月9日、若者たちが壁に登りつるはしで壊す姿がテレビに映し出された時、こうやって時代が変わるのか、とその映像に身振いした。2年後の1991年12月、ゴルバチョフ大統領が辞任しソ連が崩壊した。

私は、1991年の11月に風の旅行社を始めた。今から思えば、国際情勢が混沌とした最中だった。社会主義のタガが外れた東ヨーロッパの国々では、閉じ込められていた不満が一遍に噴出し民族対立が激化した。まるで、第一次世界大戦前夜のようで、また戦争が始まるのではないかとすら感じた。

あれから30年。東西格差は埋まらずドイツの中に新たな“壁”ができているとニュースの中の特集でNHKは報じた。自らを「2級市民」と2人に一人が呼ぶ旧東ドイツでは、その不満が排他的な右派政党のAlternative fur Deutschland、 略称AfD(アーエフデー)などの勢力拡大につながっている。「難民が同じ権利を得るのは不公平だ。難民に金を使うなら自分たちにその金を回せ」と、難民排斥を主張する彼らの合言葉は「ドイツ人ファースト」だ。 なんと、AfDは、旧東ドイツのチューリンゲン州議会選挙で、今年の選挙で第2党に躍進した。

第2次世界大戦後、英、仏、米、露でドイツは分割占領され、旧東ドイツ、東ベルリンは露が占領したが、西ベルリンは、露の占領地の中にあって飛び地として、英、仏、米が占領した。その後、1949年にドイツ民主共和国(東ドイツ)が成立したが、ベルリンでは東西の往来は自由であったために、経済発展が著しい西ベルリン、西ドイツへ東ドイツから東ベルリンを経由して逃げ込む労働者が後を絶たず、1961年8月13日、東ドイツ政府はこれを防ぐために東西ベルリンの境界線を封鎖し、ベルリンの壁を建設した。

当時の西ベルリンの大きさは、東京都区部より少し小さい程度でかなり広く、人口は約213万人。これを囲む壁の長さは155kmもあった。陸路は完全封鎖され、生活物資の輸送手段は空路しかなくなり、「ベルリン大空輸」が米軍の立案のもとに敢行された。まさに東西冷戦の象徴、それがベルリンの壁だ。

そのドイツが今、難民の受け入れで国民が激しく対立している。否、ドイツだけではない。ハンガリー、トルコ、ポーランドでも難民排他を是とする国家元首が政治を担っている。

10月22日、緒方貞子さんが亡くなった。緒方さんが高等弁務官だったころの世界の難民数に比べると、2018年のその数は、減るどころかおよそ2倍の約7千万人だという。緒方さんは日本は、もっと難民救済で役割を果たせるはずだと繰り返しおっしゃっていた。

世界中で争いは絶えない。香港は燃え盛る火を力で消し去るなら火種は残る。シリア、イラク、イエメン、ロヒンギャ、、、日本人には遠い世界のように映るが、それなりの覚悟が必要だという気すらしてくる。ベルリンの壁崩壊から30年で、改めてそんなことを感じた。

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