チベット語で雨はチャルパという。チャルの原義は「生じる。昇る」で縁起のいい単語である。世界を見渡すと多雨の地域では雨は厄とされるが、チベットは少雨地帯なことから吉とされている。雨といえば2001年8月、はじめてのメンツィカン薬草実習の年に「チャル(雨)・バブ(降る)・メン(薬)」を各自持たされ、薬草採集地で真言を唱えながら蒔くようにという(外国人の僕にとっては)興味深い指示が出されたことがあった。冬に雪が積もり雨季に雨が降れば薬草がよく育つ。そのために直系5mmの黒い丸薬20粒ほどを真言を唱えながらヒマラヤの空に向かって蒔いたことは覚えているが、肝心の真言は忘れてしまった。またその丸薬の正体はなんだったのか、今となってはわからない。引率責任者だった先生が密教行者の家系だったことから、おそらく密教に属する降雨法の一つではないかと思われる。そのおかげかは明言できないが、少なくともその実習中は困るほどに雨が降ってしまい、それは乾かなかった洗濯物とともに明確に思い出すことができる。
八世紀に起源を有する『四部医典』には「雨水は味性が不明確だがとても美味しい。/身体を育み、喉の渇きを癒し、涼性と軽性を備え、アムリタ(甘露の水)のようである。(釈義相伝第16章)」とある。雪水、井戸水、河水と比べて雨水がもっとも貴重とされている。当時の雨は21世紀の現在と違ってきれいで安心だったであろう。ちなみに現在は雨水の飲用を推奨することはない。また古来より暦法師(第126話)が雨の多少を算術で導き出して予報し農民は作付を決めていた。近年1980年ころまでチベットでは暦法師の天気予報をラジオで耳にしていたというが、僕がインタビューした範囲ではチベット人によってその評価はまちまちであった。
ここ上田を含む東信州地域は日本有数の少雨地域である(第144話)。あれは佐久(旧望月町)の農場で働いていた1997年のこと。8月に雨がまったく降らず白菜、キャベツの生育が危ぶまれた。僕は親方から命じられるがままにトラックの後ろに巨大な水槽タンクを積み、農業用給水所と畑を何往復もして水をまいていたことがあった。そして久しぶりの雨が降ったときの脱力を伴った親方の安堵の表情をいまでも鮮明に思い出すことができる。現在は自家用とはいえ広い畑なので当時の親方の気持ちがやっとわかるようになった。雨が降るとほっとするとともに身体を休めることができる。そして地元の年配者の方々と「いいお湿りですね」と天気の話題で盛り上がっている自分がちょっと嬉しい。僕は農業が楽しいというよりも、農業を介して大自然の当事者となり、そして大自然について人々と語りあうことが好きだといったほうが正確だと思う。
上田のなかでも別所温泉では「岳の幟(たけののぼり)」と呼ばれる雨乞いの祭りが1504年以来500年に渡って続いている。雨を降らせていただいた感謝の印として反物を山の頂上に捧げ神事を行うのである。別所の神社委員を務めていたおかげで運営側として深く関わらせていただいた(第236話)。大自然に捧げものをし、返礼として雨をいただく。もしくは雨への返礼として捧げものを贈る。日本各地さらには世界の多くの民族では雨だけに限らず、こうした大自然との互恵、つまり大自然とお互いに与えあう関係性を見ることができる。そしてそれを「非科学的」として、もしくは征服すべきものとして自然を消去した結果がいわゆる近代社会であり近代医学とはいえないだろうか。たしかに医薬学部の授業のなかに大自然への感謝のような儀式は存在しないし、空調が完備された近代的病院のなかでは雨、風を感じることは、まずないだろう。
もちろん豪雨災害が続く日本においては発言は慎重にしなくてはいけない。昨年の台風19号では別所鉄道の鉄橋が崩落し、千曲川堤防が決壊寸前になったことから僕たちも避難をした経験がある。この7月はかつてないほどに雨が降り続きさすがに閉口した。それでも雨を有難い存在として感謝する。それもチベット医学的な思考であり、その意味でここ東信州はチベットとの親和性が高いといえる。長い、長い梅雨が明けた8月1日に記す。