歴史小説は、時として大きな誤解を生む。デフォルメが激しいからというより、著者が、自分が描きたい像にそぐわないものを省き、強調したいものだけを抜き出し、その上に創作を施すからだろう。小説だから当然ではあるが、描き出された歴史上の人物への一般的な像を決定してしまうくらい大きな影響を与える場合も多い。
東京裁判でA級戦犯に指定され、軍人以外の文官で唯一絞首刑となった広田弘毅を描いた小説『落日燃ゆ』(城山三郎著 新潮文庫)は、まさにその典型であろう。常に協調外交を旨とし、軍部との軋轢の中でなんとか満州事変後も日支の講和に努力したと描かれ、「自らを計らわぬ」として東京裁判ではついに証人台に立つことなく、絞首刑の死刑台の前で他の死刑囚に和して天皇陛下万歳もしなかった高潔な人として描かれた悲劇の宰相・広田弘毅も、『広田弘毅「悲劇の宰相」の真実』(服部龍二著 中公新書)では、軍部に抵抗する姿勢が弱く、部下の掌握もできず、ポピュリズムに流されがちで、東京裁判でも絞首刑になることを内心は心配していた普通の人間として評価されている。
著者の服部龍二氏は『落日燃ゆ』を学生のころ読んで感動したが、大学で研究を進めるうちに「等身大の広田像を慎重に描き直さねばならないはず」(同著より)と思い、それが著述の動機になったと語っている。したがって『落日燃ゆ』との違和感はかなりなものだ。
前者は小説で、後者は研究書の部類に入るのだろうから、こういう相違は仕方がないと分かってはいるが、『落日燃ゆ』だけ読んでいれば、歴史認識も人物評価も間違ってはいただろうが、私の気持ちは、それなりに感動に包まれ平穏であったように思う。もちろん、そんな美談だけでは当時の歴史は到底語れないから、より真実を理解すべきだろうが、真実に近づくほど感動は薄くなる。
それでも、両方の本を読んで、改めて思うのだが、明治憲法下では、元老が天皇からのご下問によって総理大臣候補を選び天皇に推挙し、天皇がその者に組閣を命ずる大命降下で総理大臣が決まる。輔弼という考え方同様、決して天皇には任命責任が及ばないようにしている。統帥権は天皇に帰属するが、その責任は天皇にはない。民主主義が必ず良きリーダーを選出できるか否かは大いに疑問だし、国のリーダーにはもっと強い権限が必要だなどとコロナ禍にあっては思わなくもないが、こんなやり方でよくぞ代議士たちは従っていたものだと不思議に思う。一方で、これが日本流の知恵なのかもしれないとも思う。しかも、これに似たやり方は、今も日本のそこら中に残っているのではなかろうか。ここら辺を理解するには、私には、まだまだ時間がかかりそうだが、日本を理解するには避けて通れない。
何はともあれ、困難な時代を生きた人々の知恵を少しでもお借りし、今の状況に対処していこうと思う。