2011年3月11日、僕は北インドのダラムサラ(亡命チベット人が暮らす街)で友人と昼食を食べていた。日本とインドでは3時間半の時差があるので、大地震が発生した14時46分はインドでは11時16分にあたる。ちょうど会話が盛り上がっていた12時半ころ、デリーにいるインド人の友人から携帯に電話がかかってきた。「日本が大地震で大変です」というが、にわかには信じられず「日本は地震が多い国だから大丈夫だよ」とたしなめて電話を切った。するとまた電話がかかってきた。「オガワさん、テレビを見てください! 日本が沈んでいます。」という叫びに、さすがにランチを切り上げて外に出た。しかし、その日は街全体が朝から停電でインターネットもテレビも使えず日本への国際電話も通じない。さまざまな妄想が脳裏を駆け巡り、街で日本人旅行客を見つけては次々と声をかけたが互いに不安を増長するばかり。電気が回復したのは夕方の17時ころ。それまでのザワザワとした4時間の空白が僕にとっての最初の震災体験だったといえる。
半月後に日本へ戻ると知人の知人、つまり見知らぬおじさんが「おかえりなさい。はじめまして」と僕の家で出迎えてくれた。震災直後に日本の知人からメールで「福島の被災者のために小諸の自宅を開放してくれないか」とお願いされ、鍵の場所を教えた経緯がある。こうして現在が震災後の非日常であることをようやく体感することができた。しかし震災当日に日本にいなかったことと、もとより当時は自宅にテレビもインターネットもなかったので、その後の日本全体の風潮についていけない違和感をずっと持っていた。不謹慎ではあるがいつまでも人ごとな感覚である。メディアから洪水のように流れてくる震災関連番組に触れる気にはなれなかった。だからこそできるだけ早い段階でこの目で確かめるべく、2013年の秋、風の旅行社が主催する金崋山(宮城県)への復興ツアーに参加することにした。
女川の病院の壁に記された津波の高さとその跡、無残にまで横倒しになった四階建てのビル、現地職員による震災の解説、これらの予定されたプログラムの内容はもちろん頭では理解できる。しかし理解を遥かに凌駕するであろう破壊力の凄さは実感できないし、分かった気になってもいけないと戒めるもう一人の自分がいる。そんなもやもやした思いを抱えながら女川から金崋山へ向けて小さなフェリー(チベット語で船はドゥ・スィン 注)に参加者みんなで乗りこんだ。天気はあいにくの悪天候のため、デッキではなく船内の椅子に腰を落ち着けた。すると出港してまもなく船頭の声がスピーカーから聞こえてきた。60歳くらいだったろうか、船頭は自己紹介につづいて震災当日の体験を語りはじめた。
大地震のとき船頭は女川の沖に漁に出ていて、地震を察知すると港に戻るのではなく沖を目指して逃げた。沖のほうが津波は比較的低いからである。そして大海の真ん中で津波をなんとか乗りきって海上で夜を過ごした。翌日、港に戻ると変わり果てた故郷がそこにあったという……。文章に記すと短いが、金崋山に到着するまで40分くらい操舵しながらずっと語っていたと思う。そのゆっくりとした東北弁の声の音量は大きいけれど、それ以上に大きなエンジン音がかぶさるために話は途切れ途切れにしか聴こえない。それでもなぜだろう、その真っ直ぐな語りは僕の心に確実に届いて、そして震わせる。震災から二年半経過して、なおも湧きあがり続ける感情と言葉。「えー」とか「あのー」という挿入語はなく、よどみなく話しつづけていた。もともとはこんなに饒舌な人ではなかったのだろう、そう感じさせてくれる愚直な語り。だからこそ、誰かに話さずにはいられなくなってしまったその船頭の身体性から震災の衝撃を慮ることができた。毎日、毎日こうして震災の体験を語ることで少しずつ心が癒されていくのだとしたら、いったいいつまで語り続けなくてはならないのだろうか。
いままで出会ったなかで、もっとも心に残る語りの一つだった。だから僕はあのときの船頭の語りを「語り」の理想に掲げている。上手な、巧みな語りではない。予定調和的に講演するのではない。ただ、ただ、愚直なまでにまっすぐに語りかけたい。そしてそうあるためには、日々大自然と対峙し、畏怖の念を抱いていたい。こうして2021年のいまなお船頭の語りをお手本にして、そうありたいと日々心がけていることで、僕のなかで震災はずっと身近な存在で在り続けると思っている。
注
ヤクの皮で作った小さな船はコワ、木造の大きめの船をドゥ・スィンと呼ぶ。
※写真はイメージです。小川さんの訪問時のものではありません。