第297話 チャクポリ ~薬王山~ チベット医・アムチ小川の「ヒマラヤの宝探し」

ポタラ宮から見たチャクポリ

ポタラ宮から見たラサのチャクポリ

チャクポリ医学僧院の歴史はメンツィカン(チベット医学暦法学大学)よりも220年古い。ダライラマ五世の摂政サンゲ・ギャツォが1696年、デプン僧院にあった医学院をポタラ宮が聳えるマルポ(赤い)(山)の向かい側のチャクポリに移転し、チベット政府はこのチャクポリ医学僧院を卒業したものを正式な医師とするとチベット全土に御触れを出した。1916年にラサ市内にメンツィカンが創立された後も(第195話)チャクポリは存続し互いに良きライバルとして切磋琢磨した。しかし1959年、中国軍によって真っ先に破壊され、形式上メンツィカンに併合されてしまう(注1)。なお中国語でチャクポ(鉄の)(山)は薬王山と表記される。

チャクポリ医学院 2000年撮影 チャクポリ(インド)2000年撮影
密教法要 2011年メンツィカン メンツィカン(インド)の密教法要 2011年撮影

それから26年後の1985年、チャクポリの卒業生で、かつて法要の際にウンゼを務めていたアムチ(チベット医)がインドに亡命した。ウンゼとは読経を統率する責任者のことであり、もっとも声が太く読経が上手な僧侶が選ばれる。その方は顎ヒゲが立派なことから通称アムチ・ギャオ(髭)と呼ばれ、御本名テンジン・ペルチョクでは誰も呼ばなかった(注2)。

月齢十日に開催される密教法要ユトク・ニンティク(第79話)はギャオ先生の亡命によって復活した儀式である。この法要は全般にわたって独特の旋律とともに唱えられるのだが、譜面は存在しないのでギャオ先生の記憶のみによって伝承された。僕の入学当時、すでに高齢のために足腰がかなり弱っており、いつも学生に手を引かれてチャクポリ当時のままに中央のウンゼの席にお座りになられた。しかし体調を崩され2002年10月7日に老衰のために亡くなられた。残念ながら個人的にお話を伺う機会なかったというか、非常に激しい気性の方なので近寄りがたかったというのが本音である。ギャオ先生はトガワ・リンポチェとともにチャクポリ医学僧院を記憶にとどめる最後のアムチといわれていた。

トガワ・リンポチェは1932年生まれ。幼少時に転生活仏(第183話)として認められ15歳まで僧院で学ぶ。その後9年間に渡ってチャクポリで学び1956年に卒業。リンポチェは転生活仏であるがゆえに幼少時より英才教育を受け、医学、暦学、顕教、密教にいたるまですべて正式な過程で修了された稀有なアムチである(注3)。1964年から67年までダラムサラのメンツィカンで教師を務め、そのときの授業の様子が奇跡的に動画として残っている。退職後1970年からインド東北部ダージリンで医学教育をはじめる。そして1992年インド東北に位置するダージリンの山奥の中腹に、まさにかつてのごとくチャクポリ医学院を再興し古来どおり僧侶のみを集めて教育を行ったのである。

僕はメンツィカン入学試験を受ける一年前の2000年3月、聴講生としての入学を考慮に入れて空路はるばるダラムサラから訪問したことがある。しかし、正直なところあまりにも辺鄙な環境のために(ダージリン中心部から26キロ)その意志は道中のタクシー内であっけなく揺らいでしまった。あいにくの春休みで医学生には会えずリンポチェは明日御帰還されるとのこと。僕の復路の予定が動かせないため拝謁をあきらめるしかなかったが、わずか一日のすれ違いに、これはこれで劇的な「縁」を感じてしまった。

そしてメンツィカン入学後の2002年の11月にチャクポリの医学僧たちと出会うことになる。メンツィカンとチャクポリの卒業試験が合同で開催され(注4)、7名の医学僧が1カ月に渡ってメンツィカンに滞在したのである。試験終了後、僕はここぞとばかりにチャクポリについて質問攻めにした。学習内容や慣習などはメンツィカンとほぼ同じだったけれど、医学僧全員がリンポチェを心から尊敬しており、少数教育ゆえにその薫陶を強く受けやすく、伝統的な師弟関係(第273話)を築ける環境はメンツィカンとの大きな違いだと感じた。リンポチェは2004年に逝去され、かつてのチャクポリで教育を受けたアムチの歴史は完全に幕を閉じた。しかしリンポチェから直接の薫陶を受けた僧侶たちと触れあい、ウンゼを務めていたアムチと数回、法要を同じくできたことで、僕もチャクポリの薫香をほんの少しだけでも(ギリギリのタイミングで)受け継ぐことができたのではと安堵している。

2004年、はじめてラサを旅行した際、ポタラ宮殿をさておき、まずは向かい側のチャクポリ山の中腹まで登り、医僧院の跡地に聳える無粋なテレビ塔を眺めて当時に想いを馳せてみた。それにしても毎日、登山のごとく登校するのはさぞ大変であったろう、そんな下世話な感想を抱いたのを覚えている。なお診療所は山の麓にあったとのこと。

注1
チャクポリは真っ先に破壊され、いっぽうメンツィカンは中国軍によってその後も比較的保護された。その「差」についてはわかっていない。

注2
チベット人は総じて髭が薄い。したがって髭を蓄えている人は珍しい。

注3
すべてを正式に修めるには最短で20年はかかる。転生活仏として幼少期より英才教育を受けることが出来たゆえに可能であって、一般の僧侶、ましてやメンツィカン学生にとってはかなり難しい。

注4
チャクポリと最初の合同卒業試験は1997年に開催された。2002年の試験は2回目となり、結果的に最後の合同卒業試験となった。またメンツィカンからチャクポリに教師が派遣されるなど交流があった。チャクポリはその後、ラダック地方の尼僧医学生を受け入れ、現在、僧侶に限らず主にネパール地方のアムチの子息を受け入れて教育にあたっている。
参考:チャクポリ(インド・ダージリン)HP

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