2000年の秋、亡命チベット政府がある北インド・ダラムサラで日本映画祭(日本大使館共催)が開催され、多くのチベット人が興味津々に訪れた。すべて英語の字幕がついて6本上映されたと思うが、僕の記憶に残っているのは『蒲田行進曲』と『私をスキーに連れてって』だった。けっこう現地の僧侶も視ていたと思う。だからこそ松坂慶子の濡れ場シーンに「おいおい、大丈夫か」と自分が興奮するよりも、周囲を見回して冷や冷やしたのを覚えている。それまでの日本に関する情報といえば、インド映画に登場するヘンテコな相撲取りやサムライ、もしくは「トツゲキー」「バカヤロー」のセリフが強調される中国の反日映画しかなかったが、こうして日本人が描く映画で等身大の日本を知ってもらうのは、なるほどいい機会だなと感じた。チベット語で映画はロクニェンという。
2005年、メンツィカンではじめて僕がノートパソコンを寮に持ち込んだ。日本語への翻訳やエッセーを執筆するためなのだが、たまには知人からDVDを借りて日本映画を視た。最初に視たのは「たそがれ清兵衛」。すると、噂がたちまち広まって寮内の学生がみんな集まってしまった。派手な切りあいのシーンは少ない、静かで地味な映画だ。それでも彼らは食い入るように見つめていた。服装から、食べ物から、家の作りからなにからなにまでが珍しかったのだろう。とはいえ正直なところ映画は落ち着いて視たいので、以降こっそりと視るようになった。みんなごめん。
当時は日曜日だけ学食でテレビを視ることができ、なにかしらのインド映画をみんなで視ていたが、ヒンディー語が苦手な学生、たとえば僧侶のジグメ(第2話)はほとんど理解できなかったと思う。それでも歌と踊りのミュージカル的な要素がふんだんに盛り込まれたインド映画は言葉が分からなくても楽しめる。僕は一度だけインドの映画館で映画を視たことがある。上映前からの観客の熱気がもの凄く、はじまると同時に「待ってました!」と立ち上がり、拍手と口笛が鳴り響いたのには驚いた。主演シャールク・カーンの言葉ひとつひとつに観客からの突っ込み、拍手、ブーイングが飛び交う。ヒンディー語がわからない僕は、その話の流れを正確には追えなかったが、あの映画館の熱気だけは忘れることができない。なにしろインドは映画の年間制作本数が世界一(注)。なるほど映画大国と称される理由が観客の盛り上がりから納得することができたのであった。ちなみに僕のお勧めインド映画は「きっと、うまくいく」です。
2021年5月、地元の上田映劇で「チベット映画特集」が開催され総合司会を引き受けた。「羊飼いと風船」「オールド・ドッグ」「タルロ」。チベット人監督ペマ・ツェテンの映画は奥が深すぎるくらいに深い。どれもセリフは少なく、劇的な展開もなく、淡々と進むなかに深いメッセージが隠されている。一つ一つのシーンに仏教的な教えが込められている。そういえばチベット仏教は文字ではなく、マンダラに象徴されるように図章でメッセージが表現されることが多い。なるほど、ペマ監督の映画はチベット的な本質が背景にあることが、最後になってようやくわかってきた。いやー、それにしても、司会という役職ゆえに映画の細部にまで注意を凝らして視ていたので疲れたのなんのって。それでも上映後、地元の映画通のみなさんが大絶賛しているのを知って、都合のいいことに僕も鼻高々になったのであった。
それまでのチベットに関する映画といえば、ハリウッドの『セブン・イヤーズ・イン・チベット』(1997)やNHKドキュメンタリー『チベットの死者の書』(1993)に代表され、外国人による外国人の興味関心を主題としたチベットばかりだった。だからこそチベット人監督によって描かれる、ありのままのチベットは新鮮だった。ただし、インド映画に慣れた亡命チベット人たちが、この写実的なチベット映画を楽しめるかどうかは課題が残る。
その流れで2週間後、映画『ブータン 山の教室』のアフタートークを行った。外国に憧れる都会育ちの新任の先生がたまたまブータンの山奥の学校に赴任することになり、そこの子どもたちとの交流を描く物語。外国からは「幸福の国」として理想化されがちだけれども、若手のブータン人監督によって近代化と伝統のはざまで揺れているブータンの姿が描かれ、ブータンの若者たちの葛藤が伝わってきた。なによりも子どもたちがすんごくかわいい!
いやぁ、インド、チベット、ブータン映画って、ほんとにいいでもんですね~。
注
2008年の映画製作本数は、インドが1332本、アメリカが610本、日本は418本。
参考文献「インド映画100年の魅力」(松岡環 2011)