四部医典の絵解き図より1980年僕が10歳のとき、はじめて東京を旅行し上野公園、東京タワーなどを観光した。しかし、それらお決まりの観光地を差しおいて、もっとも印象に残ったのは上野駅前に座っている傷痍軍人の方々だった。僕にとっては聞きなれない軍歌を流しながら片手をつきうつむいて座っていた。憧れの未来都市東京に来たのに、逆に戦後の昭和20年代にタイムスリップしたかのような不思議な錯覚。どう視線を送っていいかもわからず、両親は一切触れることなくその場を足早に通り過ぎた。どんな戦争映画よりも衝撃的で、このとき生まれて初めて生々しい戦争に触れたといえる。生々しいとはすなわち、すぐに言語化できないほどに怖い感覚のこと。
小学校6年生の時、読書感想文で『8月2日、天まで焼けた』を取り上げて学校の代表に選ばれた。昭和14年生まれの父は富山大空襲の日のことを「家からは（20キロ離れた）富山市の空が花火のように明るくて、無邪気にも綺麗だなあと思ってしまった」と語っていたものだった。父は生粋の社会党党員。憲法九条の保持や平和を訴えて街頭演説をやっていたほどで、家には前述の本を含め、戦争と平和に関する書籍が本棚にたくさん並んでいた。しかしその反動であろうか、平和への直接すぎる言語表現に対する忌避感がいまの僕にはある。
チベット亡命社会で暮らし、小中学校に相当する教科書を学んでいて気がついたことがある。そういえばチベットの歴史教科書には関ヶ原の合戦のような、戦いの物語がほとんど載っていないし、そもそも名称を冠するほどの合戦は語りつがれていない（注１）。かつて8世紀、吐蕃と日本の教科書に記されている時代に唐の長安にまで勢力を拡大したという記述が唯一というべき戦勝の歴史である。ちなみにチベット語で戦争はマクトゥクという。
中学校の歴史教科書いっぽう日本では壇ノ浦の合戦、元寇の神風、桶狭間の戦い、本能寺の変、江戸時代には忠臣蔵が大人気を博し、近代でも二百三高地の戦い、ミッドウェー海戦など戦記物には事欠かない（注２）。戦闘シーンではリアルに殺傷シーンが放映されている。僕も幼少期からNHK大河ドラマをずっと視聴していて、大坂夏の陣では真田幸村の奮戦に熱くなったのを覚えている。小学校5年生のときには「戦国武将ゲーム」という領地拡大のボードゲームに夢中になっていた。なによりも日本はあらゆる分野で「SAMURAI（侍）」をキャッチフレーズとして用い、実際にそのイメージが外国では定着している。
そして29歳からの10年間、チベット社会で戦記物にほとんど触れなかったからであろうか、日本社会で育ったそれまでの28年間、無自覚なまでに戦争を題材としたエンターテイメントを与えられ続けていたことに気がつかされたのである。もちろん自分は平和主義者であると自負はしているが、もしかしたら、本質的には戦争を好きとまではいかなくても、無自覚なまでに興味があるのではという否定したくとも否定しきれない仮説が浮かんできてしまう。そしてそんな自分を自覚したからであろうか、2009年に帰国後、映画や漫画でリアルに演出される殺傷シーンに不快感を覚えるようになってしまった。
ミンチェンセルポを採取した筆者 2001年こう記すと、チベット人みんながお釈迦様のように穏やかな人たちだと思うかもしれないが、個人レベルでは男性も女性も日本人よりたくましく、日本人ほどに怒りを我慢してストレスをため込まないために小さな諍いはむしろ多い。かつて15～19世紀には仏教の宗派間で生々しいまでの権力闘争が繰り広げられてきた。こうした俗っぽい一面があることを補足しておきたい。
メンツィカン（チベット医学大学）学生時代、忘れられない言葉がある。入学直後の1、2年生のころ、僕は定期試験にしろ暗誦にしても徹底的に勉強するとともに、薬草採取ではチベット人たちに後れをとるまいと必死に頑張っていた。そんな姿が、彼らからは異質で、あたかも戦っているかのように映ったようだ。「オガワを見ていると第二次世界大戦で日本がアジアを征服しようとしたことが理解できるよ」と製薬工場のベテラン職員が何気につぶやいた言葉はいまも僕の胸に突き刺さっている。
（注１）
チベットの歴史教科書は日本語に訳されています。こちら（チベットの歴史と宗教―チベット中学校歴史宗教教科書― (世界の教科書シリーズ35) 残念ながら在庫なし。お近くの図書館でどうぞ）
（注２）
こうした戦記物、軍記物は明治維新後の富国強兵策のなかで、意図的に強調され民衆に流布されたという説を何かの本で読んだことがある。チベット社会に軍記物が少ないのは近代において日本のように大規模な戦争を経ていないからではないかと推察できる。
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