本屋大賞の『同志少女よ、敵を撃て』(逢坂冬馬著 早川書房)を読み終えた。想像通りよく考えられた厚みのある小説だった。ソ連を理解し今のウクライナを考える一つの手立てとなった。
ウクライナのことを考えるうえでヨーロッパを知りたいと考え、1941年から45年第二次世界大戦のドイツおよび枢軸国とソ連が戦った独ソ戦(別名、東部戦線)に関わる映画を3本見たと先週書いたが、「スターリングラード」という映画(2014年ロシア製作)は『同志少女よ、敵を撃て』を理解するうえで大変参考になる。史上最大の市街戦と称されているスターリングラード攻防戦を描いたものだが、市街戦の悲惨さは想像を超える。
独ソ戦の戦場、否、ヨーロッパでの戦争は、何時も、普通の住民たちが住んでいる日常の生活の場で銃弾、砲弾が飛び交うのである。戦場の中で供たちが遊び、洗濯し料理をする日常がある。今のウクライナと全く同じである。
独ソ戦での犠牲者数は、ソ連約2000万人(現材のロシア発表では2660万人)枢軸国約800万人~1000万人だといわれていると先週書いたが、普通の住民たちはもちろん、侵略を受けた国の住民たちもパルチザンとして戦い犠牲となった。「ファシストを叩け」という正義と「劣等民族のコミュニストを粉砕しろ」という偏見に満ちたスローガンがぶつかり合う。偏った考えでも、お互いそれが正義だと言って譲らない。終戦後、ソ連は西側諸国との冷戦に入っていく。一緒に戦っていた国が、今度は「ブルジョア国家」として敵になる。お互いの正義はその都度変わっていく。
映画作家・河瀨直美氏の東大入学式での祝辞が話題になっている。話題となっている部分を以下抜粋する。
(前略)例えば「ロシア」という国を悪者にすることは簡単である。けれどもその国の正義がウクライナの正義とぶつかり合っているのだとしたら、それを止めるにはどうすればいいのか。なぜこのようなことが起こってしまっているのか。一方的な側からの意見に左右されてものの本質を見誤ってはいないだろうか? 誤解を恐れずに言うと「悪」を存在させることで、私は安心していないだろうか? 人間は弱い生き物です。だからこそ、つながりあって、とある国家に属してその中で生かされているともいえます。そうして自分たちの国がどこかの国を侵攻する可能性があるということを自覚しておく必要があるのです。そうすることで、自らの中に自制心を持って、それを拒否することを選択したいと想います。(東京大学のHPより)
これに対して「侵略戦争を悪と言えない大学なんて必要ない」などと国際政治学者から批判が相次いでいる。河瀨直美氏は非難されるだろうことは十分承知の上で、敢えて今の風潮への自分の中の危惧に触れたに違いない。もちろん侵略戦争が許されるはずはない。しかし、世界が互いの正義を振りかざして譲らなければ、世界はブロック化し第一次世界大戦前と同じになって新な世界大戦になるかもしれない。
お互いの言い分を聞いて調整すべき国連も、安保理のメンバーが当事者になってしまい機能停止状態である。到底、日本は仲裁できる国にはなりそうにない。やはり、立ち止まって考える必要があると私は思う。