講座名:知られざる下野・野木町の歴史探訪 第二回「千年の杜野木神社と野渡熊野神社の春まつり」
開講日:2022年4月10日(日)
報告者:中村昌文
「知られざる下野 栃木県野木町の歴史探訪」講座の第2回はJR野木駅からタクシーで野木神社に向かいスタートです。
野木神社の主神は「兎道稚郎子命(うじのわきいらつこのみこと)」。「日本最大の古墳の主」として有名な仁徳天皇の弟で、仁徳天皇の天皇の位を譲るために自殺したとされ、その名からわかるように京都の宇治神社の主神として祭られています。
今回は関根先生同行ということで、特別に拝殿にあがって神主さんからの解説の後、重要文化財となっている谷文晁が描いた巨大な絵馬、乃木希典が奉納した品物などご宝物、本殿の立派な彫刻を見せていただきました。境内の裏にはニリンソウが群生しており、ちょうど花が満開を迎えていました。
野木神社は仁徳天皇の御代、この地から西南に少し離れた「台手函(だいてばこ)」の地に建てられたそうですが、坂上田村麻呂が蝦夷征伐の帰路に報賽として現在地に社殿を新築したそうです。
続いて野木宮合戦の舞台となった、その「だいてばこ」へ歩いて向かいます。途中、何の変哲もない畑の真ん中に小さな石塚が。坂上田村麻呂が社殿を移築した際にご神体を一時安置した「お休塚」だそうです。一人で歩いていても絶対に気づかなかったでしょう。現在でも「七郷めぐり」というお祭りの際には、ここにご神体を運んでくるそうです。
源頼朝が平家打倒を掲げて挙兵した際に、同じ源氏の志田義広(頼朝の叔父)は常陸国志田の荘を拠点として頼朝に対抗しました。頼朝が西の平家と戦う背後を突こうと3万の兵を引き連れ鎌倉を襲おうと挙兵、野木の地を治めていた小山朝政を誘います。 小山朝政の母は頼朝の乳母の一人であったので、志田軍に加わると偽って野木宮の地で騙し討ちにし、志田軍を打ち破ります。敗れた志田義広は敗走し、木曽の源義仲軍に加わります。
この戦は1183年に起きたとされ、関東において頼朝の勢力が確定し、後顧の憂いなく西の平家や木曽義仲と対決することができるようになったという、実は鎌倉幕府の成立(1185年)に関して重要な意味を持つ戦であったと言われています。現在、放送しているNHKの大河ドラマでも全く触れられていませんでしたが、この地にも日本史上重要な戦いがあったのです。
お昼は、野木町煉瓦窯の広場でお弁当です。野木町煉瓦窯は明治期のインフラ整備のために大量の煉瓦を製造した下野煉化製造会社が建てたホフマン式の煉瓦窯。原料となる良質な年度と川砂が取れ、そのまま水運を利用して輸送できるという地の利を生かした、という先生の説明を実際に地形を見ながら伺うと、なるほどその通りだと納得です。
第5代の鎌倉公方で初代古河公方の足利成氏が創建した満福寺を見学後、渡良瀬川の土手を登ると、ちょうど一面の菜の花畑がお出迎えです。
土手から下ったところにある薬師堂には、昭和10年の大洪水の被害を後世に伝えるための石碑が立っています。
実は、この石碑は地元の人にも忘れられて苔むしていたものを、関根先生が発見し、教育委員会の許可を得て苔を剥ぎ、拓本を取って内容を確認し、「再発見」したものだそうです。
最後は、紀州熊野から勧請されてきた熊野神社を訪れて、講座は終了。
今回の講座では、上の石碑のように、定年退職し栃木県の野木町に移住した当初、地元の人に「ここには面白いものは何もないよ」と言われた関根先生が、地道にお寺や神社を歩き、地元の人から聞き取りをすることで、知られていなかった(忘れられていた)野木町の歴史を掘り起こすフィールドワークの成果を、あちらこちらで見ることができました。
残念ながら新型コロナウイルス感染症拡大防止のため、野木神社の「春の神楽祭」は中止。熊野神社の「ササラ獅子舞」は非公開となったため、お祭り見学は”なし”となりましたが、お天気にも恵まれ、野木町の歴史や風土をじっくりとお聞きすることができ、非常によい講座となりました。次回の講座、ツアーもとても楽しみです。
歴史満載の“とちぎ”の旅
終了ツアー 【現地集合】5/14(土)発「下野国の豪族小山氏の古城探訪」と今、注目の巨大山城を訪ねる 2日間