西武新宿線の新井薬師前駅の南口改札を出てすぐに「文林堂」という古本屋があり、時々立ち寄っては棚に並んだ本の背表紙を眺め何冊か本を買い求めた。その文林堂が先月初めに閉店した。伽藍洞になった店のガラス戸に張り出された“閉店のお知らせ”で先週そのことを知ったが、なんと大正5年(1916年)創業というから106年という長きに亘る歴史があり、新井薬師前駅では80年以上営業していたようだ。
その“閉店のお知らせ”には「(前略)読書の重要性反知性主義の蔓延暴走する資本主義科学技術発展への盲賛・・・等々対話を通して同じ思いを共有してくだされた少なからぬ方々との出合いはこの上ない喜びとして記憶に残ることでしょう。いつの日かこの地に尖った反骨の古本屋がいたことを思い出していただければ幸いです。(後略)」とあった。
私は、特に店主と話をしたこともないから店主とは“出合わなかった”客に過ぎなかった。6~8坪ほどの正方形をした店に入ると真ん中に一間ほどの背中合わせに並んだ本棚が2つあり、それと向かい合うように両壁を本棚が覆っている。一本の通路ですべての本棚が臨める。その馬蹄形の真ん中の奥に店主が坐っていた。“反骨の古本屋”というに相応しい本は、店の左側の壁の本棚に並んでいた。
映画、演劇、哲学、民俗学の本が多かったと記憶している。内容は、アナーキズムや実存主義的な本が多かったように思うが、私の勝手なイメージに過ぎないかもしれない。その本棚の中から、ヒンズー教やチベット仏教に関する本を各1冊買ったと記憶している。他には、真ん中の本棚から文庫本を買ったことが何回かある。吉川英治の三国志を全巻ここで買ったと思う。
古本屋は、かつては駅前か商店街に少なくとも1軒はあった。信州の松本に住んだときは、縄手通りという古い商店街に少々大きな古本屋があった。東京の大学に出てきて最初に神奈川県の東横線沿線に住んだ時には、少し遠かったが駅の反対側の商店街に1軒あった。大学2年生で品川区に住んだ時には、駅からアパートに向かう商店街に6坪ほどの小さな古本屋があって、大江健三郎や川端康成、太宰治、阿部公房、志賀直哉、高橋和巳、三浦綾子、などなどの文庫本をどっさり買ってきて大学も行かずに読んでいたことがあった。東京から信州に一旦引上げ、丸子町の大屋という駅の近くに住んだ時は、流石に本屋そのものがなくて上田の街まで行かないと本が手に入らなかった。
最近は、すっかりAmazonの世話になっているから、古本屋がなくなることを嘆く立場にはないし、むしろ本屋の経営難を招く原因を作っている方だと思う。店主は、随分前から閉店を考えておられたのかもしれないが、“反骨の古本屋”という心意気が、何代かに亘って受け継がれギリギリ頑張って来られたのだろう。心から敬意を表したい。
売れるかどうかだけが基準になっている大手古本屋チェーンの論理とは全く違う世界がそこにはある。旅行の世界でいえば、弊社も文林堂に近いのかもしれない。しかし、事情はともかく経営を継続させることが弊社の最大の課題だ。100年以上続いた文林堂を見倣いたいものだ。