野迫川村の歴史と伝説と文化に触れる
奈良県の南部を占める広大な吉野郡。その吉野郡の中西部に位置する村が野迫川(のせがわ)村です。人口は330余人で、2023年4月21日現在、離島を除けば全国でもっとも人口の少ない自治体です。もともとは≪野≫川組、≪迫≫組、≪川≫並組の3つの小さな自治体が存在し、それが合併してできた村で、明治22年4月1日の町村制施行以来、一度も他の市町村と合併することなく、現在に至っています。
江戸時代までの歴史は資料が少なく、村内に鎮座する立里荒神と、隣接する高野山に挟まれ、村内には高野山と熊野三山とを結ぶ熊野古道・小辺路が通っています。江戸時代には徳川家直轄領(俗に幕府直轄領、天領)に組み込まれ、五條代官所の支配下にありました。隣接する五條市や十津川村と異なり、鎌倉時代から建武の新政を経て室町時代へと続く歴史のうねりの中で勃発した南北朝の動乱にも、江戸時代末期(幕末)の天誅組の変にも巻き込まれることなく明治維新を迎えました。
時代に取り残されたような野迫川村ですが、三つの落人伝説が伝わっています。そのひとつに「平家伝説」があります。平清盛の孫で、貴種流離譚が各地に残る平維盛が、この地で終焉を迎えたというものです。村の中央部には【平家の里】があり、石碑等が残っています。また、平家の落人伝説で名高い九州の椎葉の鶴富姫が、恋人で源氏方の武将・那須大八郎と恋仲になるも、その事を咎められた大八郎が転勤(左遷?)となったことを悲しんで後を追ってこの地に辿り着き、亡くなったという「鶴姫伝説」があります。そして南北朝時代後期、弟・後亀山天皇に譲位した長慶上皇(天皇)が各地を流転し北朝型に抵抗した後にこの地で崩御したという「長慶天皇伝説」があり、【長慶天皇陵】があります。高野山と護摩壇山や大峰に連なる山々、それも大山塊に囲まれた野迫川村には、そうした落人の伝説が今も色褪せることなく、残されているのです。
【立里荒神社】
かまどの神様として知られる三宝荒神を祀る神社で、現在の主祭神は誉田別命(応神天皇)と火産霊神(イザナミ神が産んだ火の神=カグツチ)です。歴史は古く、弘法大師・空海が嵯峨天皇より高野山を拝領し、高野山を開山する際に仏法の護法神として三宝荒神を祀ったのがはじまりと伝わっています。荒神は、仏法僧の守護神であり、深い慈悲をたたえ、憤怒の相をもって仏敵と対峙する姿で描かれますが、多くの仏法僧の守護神がインド仏教由来なのに対し、日本で生まれたという違いがあります。高野山と結ぶ神仏習合の神社として宝積院として崇拝されましたが明治初期の廃仏毀釈で宝積院は廃され、荒神が残りました。参拝者は麓から無数の鳥居が建ち並ぶ参道を上って参詣します。雲海の名所としても有名で、雲海観賞に訪れる人も少なくありません。また、天気がよければ紀伊半島の屋根ともいうべき明峰の並ぶ絶景を楽しむことができます。今回は参籠所(宿泊施設)に泊まり、初日の出のご来光や雲海や紀伊半島の山々を観るチャンスをうかがいます。
【眼力大明神(車窓拝観)】
立里荒神からの帰途、車窓から眼力大明神を拝観します。民間信仰のひとつで、目の病気の平癒にご利益があると伝わっています。小さな鳥居と祠、狛犬そしてご神体とおぼしき石碑が二基。注意しないと見落としてしまうかも。バスは眼力大明神の前で少し停車します。他の乗客にならって、そっと手を合わせてみましょう。
【野迫川温泉】
野迫川村の『ホテルのせ川』には温泉があります。アルカリ性泉で、無色透明・無味無臭という特徴があり、お湯が柔らかく、お肌がすべすべになり、「美人の湯」として親しまれています。PH10.4のアルカリ度は奈良県の温泉の中でも随一と表彰されています。婦人病やリウマチ性の疾患・痛風・慢性便秘・神経麻痺をはじめとする運動障害・糖尿病そしてある種の不妊症に効果があるそうです。今回は降雪(積雪のことも)の時期の訪問ですが、体の芯から温もり、温泉からあがってもしばらくの間は湯冷めしにくいそうです。ボディーソープやリンスインシャンプー、ハンドソープ、ドライヤー、ティッシュ、綿棒などが備え付けられています。
【北今西】
野迫川村の西部に位置する集落で、集落内にホテルのせ川やキャンプ場があります。小さな集落内にはホタルの観察ポイントや、勝手神社(主祭神は彦火瓊々杵命)、古い温泉塔、後述のオコナイの舞台となる寿楽院などがあります。川原樋(かわらび)川沿いの静かな集落です。
【長慶天皇陵】
南朝三代目の天皇で、後村上天皇の皇子、そして後醍醐天皇の孫にあたります。流浪の天皇として知られ、激しく北朝方と戦った天皇でもあり、譲位した弟の後亀山天皇が京都に戻っても抵抗を続けたとされ、行在所の伝承地や、御陵とされる場所は各地にあります。同じ奈良県の十津川村の国王神社にも御陵がありますが、野迫川村の弓手原に近い場所にも御陵があります。北朝との戦いに明け暮れたという伝説が残る長慶天皇の生涯は、謎のベールに包まれています。
【弓手原】
弓手原は、野迫川村の西のはずれ、川原樋(かわらび)川沿いにある最奥の集落です。地名の由来は、戦と逃避行に疲れた長慶天皇が山を下ってこの地に至り、杖にしていた弓で腹を摩り、空腹を告げられた為と伝わっています。かつて弓手原の集落には、地蔵堂と高野山真言宗の寺・徳蔵寺があり、豪華で荘厳と言われた弓手原のオコナイの舞台となっていましたが、現在では地蔵堂も徳蔵寺も小学校建設で土地と建物を失い、現在は祭祀は公民館の中に移されています。
【平家・維盛歴史の里】
平維盛は平重盛の嫡男。重盛は平清盛の嫡男なので維盛は清盛の嫡孫にあたります。源頼朝が坂東武者に担がれて旗揚げをした治承・寿永の乱の追討軍総司令官となり、源頼朝や武田信義追討を指揮しますが、富士川の戦いで敗れて、京都に逃げ帰ったエピソードで有名な人物です。その後、戦線を離脱し、潜伏しますが、壇ノ浦の戦いでの平家滅亡を潜伏先で聞き、絶望して入水自殺したとされます。ただし終焉の地とされる場所は各地に伝説があり、一説には入水をせず、生きながらえたという言い伝えもあることから、終焉の地あるいは墓所は治定をみてはいません。その潜伏・終焉の地の伝説地のひとつが野迫川村にあり、現在では平家の里として
中世のロマンを伝えています。現在、維盛中将の碑が、見晴らしの良い丘に建てられています。
◆◆◆北今西のオコナイ◆◆◆
★1月2日(火)はオコナイを見るチャンスがあります。
最近はコロナ禍の影響や、参加者の減少により実施されない年もありましたが、2022年は実施されました。2023年も実施に向け、集落の方たちが計画を立てています。もともとは近畿地方を中心とした西日本で年の初めに五穀豊穣を願って行われる伝統行事がオコナイです。ルーツを辿ると仏教でいう修正会(しゅしょうえ)に行き当たるとされ、旧年の反省とを行い、新年の地域の安泰と五穀豊穣を祈願するという主旨が共通しています。野迫川村では北今西と、弓手原にオコナイが伝わっています。弓手原のほうは過疎化が進み、オコナイは休止中ですが、北今西で寿楽院阿弥陀堂では正月二日にオコナイの儀式が行われています。北今西と弓手原のオコナイは奈良県の無形民俗文化財に指定されています。オコナイは下記の流れで行われます。
0.(オコナイの準備※非公開)
奈良県の無形民俗文化財に指定されているオコナイ。1月2日の午後7時から行われますが、準備は午前8時ごろ始まります。法螺貝の合図で寿楽院阿弥陀堂に集合し、役人衆(主催者)により、だんどりが告げられ、集落の住民、帰省している人が力を合わせ、材料を集めます。午前中は山に入って、儀式で重要な役割を果たすシラクチカズラ、シキビ、アワギ、杉の葉、マナダケ、ニベノキ等を採集します。10時半ごろ阿弥陀堂に採集された材料が搬入されて、ツクリモノ(儀式の道具や装飾品)を準備します。カズラ巻が行われ、カズラの下に吊るすアワギやダンナワギ(木を加工したもの)とカズラやアワギに打ち込むニベノキのクサビを作り、祭壇に供える竹筒に飾ったシキビ、モリモノ(供物)を飾る杉の葉の束、儀式の机に 飾るタテバナとフクバナ(椿の造花)を生けるマナタケ等の準備をします。昼過ぎに注連縄、椿の造花づくり、牛王宝印の護符づくり、牛王宝印を押印したお札を四つ折りにして家長の 名を記しマナタケに挟んだチワを戸数分作成、ジョウジキ(半紙の切り抜き絵で、北今西の 勝手神社の社殿、イチョウ、杉の文様を切り抜き絵で表現したもの)、モリモノと呼ばれるお供物(みかん、茹でじゃがいも等)の飾り付けが平行して行われ、夕方には一段落します。夕方以降は役入りの儀、とうぶんの確認、粟餅を供えるカケモチの準備を行い、終わります。
1.貝吹
オコナイの儀式が始まるのは夜7時ごろ。集落の内外から参会者が三々五々、集まってきます。儀式の準備が整うと、主催者の男性が寿楽院の入口で法螺貝を吹いて儀式の始まりを告げます。
2.御開帳
寿楽院の御本尊は阿弥陀如来像。主催者の男性が厨子を開け、阿弥陀如来像を御開帳します。参会者は順番に参拝します。その後、主催者から参会者に御神酒や蜜柑が適宜振舞われます。
3.組入りの儀式
北今西(現在では北今西と大股)の20歳以上の男性の姓名を記した名簿(とうぶん)を読み上げる儀式。儀式前に物故者を名簿から外し、新たに加わる人を名簿に加える作業があります。
4.宝印カツギ
神社や寺院などが発給する護符(守札)の牛王宝印(ごおうほういん/かつては裏に起請文を書く用紙として使用された)を収めた仏具を長い木の柄に括り付け、参会者の頭上にかざし、寿楽院の入口から、儀式の道具を並べた机の右側を回って祭壇の前を通り、机の左側を回って寿楽院の入口に戻るという儀式が行われます。これを三回繰り返し、オコナイが始まります。
5.般若心経祈祷 儀式用の机を中心として般若心経の読経が行われます。読経できる方は参加してみましょう。
6.カズラ切り
儀式前にシラクチカズラを巨大なリース状に編み上げ、シキビ等で装飾します。カズラ切りの儀式の直前にシキビ等の装飾は取り外され、むき出しになったシラクチカズラの巨大な輪を、北今西(現在では北今西と大股)の20歳以上の男性が力を合わせ、杉丸太を使ってねじ切ります。集落の男性が力を合わせることで、連帯感が生まれる事を目的とする儀式のようです。
7.ウタヨミ
参会者が儀式の道具を並べた机の三方(もう一方は祭壇)にコの字型に並び、歌詞が書かれた巻物を見ながら長い歌を独特の節回しで歌い上げます。「そよな~」という部分が印象的です。
8.タテモチの競売
儀式の前に参会者の家庭から奉納された丸くて平べったい粟餅を競売するオークションの儀式。最も高い値を付けた参会者が粟餅を手にします。祝儀の意味合いがあるため、値段がどんどん吊り上がってゆきます。中には2枚、3枚・・・と競り落とす参会者もおり、大変賑わいます。
9.チワの配布
最後は参会者のうち、集落内のひとびとに一戸にひとつ、チワが配られて儀式は終了となります。
オコナイは伝統行事ではありますが、時代に合わせて少しずつ形を変えて現在に至っています。弓手原のオコナイは、日をまたいで行われ豪華であったといい、おしくらまんじゅうなど、北今西とは異なる儀式もあったそうで、復活が望まれます。寿楽院阿弥陀堂は、ホテルのせ川から徒歩5分。暖かくして歩いていきましょう。
今回の旅では、高野山駅と立里荒神前の往復に南海りんかんバスの路線バスを、また、高野山駅と野迫川村ホテルのせ川の往復はホテルの送迎車を利用します。公共交通機関が少なく、旅がしづらい野迫川村を路線バスと徒歩で満喫します。