姉妹ツアー【奈良県の神話のふるさと➁生駒山地・平群谷をあるく】はこちらをご覧ください。
生駒山地
生駒山地は大阪平野と奈良盆地・京都盆地の境界をなす山地で、主峰は標高642mの生駒山です。明治維新以前では、河内国と大和国・京都が主邑となる山城国との境界でもあり、生駒山地の麓や、山地を通る交易路も発達していました。
現在の国道8号線が通る暗峠は、石畳道という明治維新前の街道の趣を残しており、旅行者や歴史愛好家に愛されています。また、山岳地帯には生駒聖天(宝山寺)や、信貴山の朝護孫子寺といった名刹もあり、関西一円や全国からの参拝者が後を絶ちません。
この生駒山地には神話の伝説地が点在しています。以下、神名/人名は日本書紀の記載に準じます。
瓊瓊杵尊(ニニギノミコト=天津彦彦火瓊瓊杵尊)より以前に降臨したとされる饒速日命(ニギハヤヒノミコト)や、その妻の兄で生駒山地周辺に広大な領地を持っていたとされる長髄彦(ナガスネヒコ
)、そして日向国より東征してこの地を平定することになる神武天皇(カンヤマトイワレビコノスメラミコト=神日本磐余彦天皇)にまつわる伝説地が残っています。神話の世界観を現実の歴史に置き換えるのは非常に難しいことですが、神話が伝説としていまも生駒山地の人々に受け入れられていることに注目したいと思います。
神武天皇という人物がどのような生涯を送ったかは、記紀に詳しく書かれていますが、最初の紀伊半島上陸の際に兄・五瀬命が戦死したり、捲土重来を期して南紀に上陸し北上する過程で国つ神(土豪)に激しく抵抗されたりと、様々な困難が待ち受けていたと記されています。艱難辛苦の末に辿り着いた大和盆地で、神武天皇一行はラスボスとでもいうべき長髄彦と対峙することになったとされます。
当時、生駒山地を含む広大な土地を治めていた長髄彦は、神武天皇の曾祖父である瓊瓊杵尊よりも先に高天原から地上に降臨した饒速日命を妹婿(このあたりの時系列は神話の中のことなので考証の対象にはならないと思われます)にし、権勢を誇っていました。しかし神武天皇は饒速日命の調略に成功し、長髄彦はついに敗れ去ります。生駒山地と矢田丘陵の間には、長髄彦のお墓とされる古墳や、一之矢塚、二之矢塚、三之矢塚といった饒速日命の戦いに関する伝説地があります。今回は生駒山地に点在する長髄彦、饒速日命、神武天皇の関連伝説地を回ります。
夫婦塚の碑(御炊屋姫の塚伝承地)
長髄彦の妹で、饒速日命の妻とされる女性。日本書紀では三炊屋媛(ミカシキヤヒメ)と記され、御炊屋姫と表記されることもあります。長髄彦の妹でありながら、夫である饒速日命が神武天皇に臣従した際にはそれに従い、饒速日命との間に物部氏や穂積氏の租神とされる宇麻志摩遅命を生んだとされます。夫婦塚の名から、御炊屋姫と饒速日命が合葬されていると思われがちですが、饒速日命は別の場所にお墓の伝承地があります。
天忍穂耳神社
天忍穗耳尊(アメノオシホミミノミコト=正哉吾勝勝速日天忍穗耳尊)は天照大神の子で、神武天皇の高祖父で、瓊瓊杵尊と饒速日命の父にあたる神とされます。天忍穂耳尊を祀る神社は、福岡の英彦山神宮が有名ですが、ここの天忍穂耳神社は、おそらく饒速日命の祖神として祀られた可能性があります。この地で神武天皇と饒速日命、ふたりの天孫が出会い、大和平定を成し遂げたとされています。
神武天皇聖蹟鵄邑顕彰碑
皇紀二千六百年にあたるとされる昭和15年、神武天皇の御事績を顕彰するために神武天皇の聖蹟とされる場所に碑が建立されましたが、その一つに神武天皇聖蹟鵄邑顕彰碑があります。長髄彦との最終決戦の際、神武天皇の弓に光を放つ鵄が止まり、その威光により長髄彦を征討したという伝説に基づき、建碑されました。
饒速日命墓
生駒市白庭に、生駒市総合公園があります。その奥の丘陵地帯に、饒速日命墳墓と呼ばれる塚があります。サッカー場のゴールの奥から丘陵に入り、目印を辿って登ると、饒速日命墳墓の石碑と石を積んだ塚が見えてきます。天忍穂耳尊を共通の祖先とする神武天皇側につき、妻の兄である長髄彦討伐に貢献した饒速日命の子孫はやがて物部氏、穂積氏という大和朝廷に仕えた豪族として繁栄していったとされています。
金鵄発祥の處碑
神武天皇の東征の神話は、紀伊半島上陸から大和平定まで、詳細に記されています。はじめ、大和盆地の西側から攻めた神武天皇の軍は、長髄彦の軍と激戦となり、神武天皇の兄である五瀬命が戦死したとされます。日の子(天孫)が太陽に向かって進軍してはいけない、五瀬命の遺言で捲土重来を期した神武天皇は紀伊半島の南から上陸し、大和をめざし、途中に土豪との融和や戦闘を経て大和盆地に到り、金の鵄の助けを得て、宿敵・長髄彦を平らげたとされます。
長髄彦本拠の碑
長髄彦は、神話の中で神武天皇に抵抗して逆賊というレッテルを貼られてしまいましたが、もともとは大和盆地の北部、かなり広大な領地を治めていた豪族であったとされます。神武天皇の兄である五瀬命は長髄彦の矢で射られ、亡くなったとされます。日の子である我々が日(東)に向かって戦いを挑むのはよくないと神武天皇に遺言した神話が残っています。
鳥見白庭山の碑
瓊瓊杵尊の天孫降臨の舞台は、宮崎県の高千穂、鹿児島県の高千穂峰などが知られていますが、ここは同じく天孫ともいうべき饒速日命が天磐船に乗って最初に櫂峰に降臨、その次に河内国の哮峰に降臨、そして最後に大和国鳥見の白庭山に降臨したとされています。その白庭山に比定されている場所が、長髄彦の本拠地のすぐ近くにあります。神武東征はこの地で決着をみることになったとされます。
稲蔵神社
かなり以前に出版されたガイドブックによると生駒山地の山々は「神話に出てくるいかるが三十六峰」に比定されていますが、いまだにその情報ソースに辿り着けていません。稲蔵神社は生駒山地の南部に位置しており、鬱蒼とした社叢に包まれています。饒速日命が『天孫降臨』した際に同道した二神、生魂と大宮能御膳神が祀られています。境内にあるおむすび型の烏帽子岩に二神が宿っているとされます。
稲蔵寺
生駒市小明町にある小さなお寺ながら、東大寺大仏の後背が完成した宝亀2(771)年に行基菩薩の高弟・信定僧都が稲蔵大明神の霊告により開創という古い歴史を持っています。安土桃山時代、豊臣秀吉が側室・淀殿の安産祈願を行い、寺領として田園70石を寄進しました。子安地蔵尊を安置していることから、安産のお寺として地元や関西方面の人々の信仰を集めています。
★番外編: 伴林光平社関連史跡
奈良県のさいはてのバス停のひとつである北田原のバス停。この辺りは幕末の文久3(1863)年に五條代官所を襲撃し、明治維新の魁と呼ばれた天誅組に加わり、記録係として南山踏雲録を著した伴林光平が幕吏に捕縛された場所です。伴林光平の記録があったおかげで、天誅組がどのような末路を辿ったか、うかがい知ることができます。捕縛の地の正確な場所はわからず、碑や説明版はありません。磐船神社の境内には伴林光平の歌碑があります。大和法隆寺の寺侍であった伴林光平には、志士のほかに文人としての顔もありました。
磐船神社
北田原のバス停をさらに北上して府県境を越えて大阪府交野市に入ります。天野川をさかのぼると、苔生した巨岩がある神社が姿を現します。それが磐船神社です。天磐船に乗った饒速日命が二番目に降臨した哮峰はここでは?と言われています。ご神体は天野川をまたぐような舟形の巨岩で、饒速日命が乗って降臨した天磐船と目されています。清流と巨岩が独特の雰囲気を醸し出しています。『岩窟めぐり』が有名で、コンディションがよければ社務所で申し込み、チャレンジできます。
岩蔵寺
生駒山地には、伝説に彩られた奇岩怪石が点在していますが、岩蔵寺の境内にも苔生した巨巖があります。真言宗三室仁和寺派の末寺で、真言密教の修験道場であったともいわれています。開基は役行者小角で、延暦年間には伝教大師最澄が堂を建立したとされ、弘仁年間には弘法大師空海も不動明王像を刻み、洞に仏舎利を供えたといわれています。境内の巖は、修験道の修業の場であったとされます。
住吉神社(おまつの宮)
全国にある住吉神社と同様、ご祭神は底筒男命、中筒男命、表筒男命ですが、この神社には息長足姫命(仲哀天皇の皇后・神功皇后)も合祀されています。古代の日本には天照大神や月読命のように天体を神格化した神が信仰の対象となっていましたが、黄泉の国でイザナミノミコトの屍と対面したイザナギノミコトが禊を行って生まれた住吉三神も天体である可能性があります。背後の森は「星が森」と呼ばれます。愛称である「おまつの宮」の由来は不明ながら、磐船神社から松の木を移植したからともいわれています。境内には巨大な石灯籠があり、道を挟んで住吉神社の御旅所と目される土地があります。
今回の旅では、神話に出てくるいかるが三十六峰と目される山地や、丘陵地帯を歩き、神話のふるさとを訪れます。やがて大和朝廷で勢力を広げる物部氏の先祖の地と考えられています。物部氏が蘇我氏や聖徳太子によって滅ぼされた後、一族はこの地を離れ、神話と伝説の地だけが残りました。有名な神社仏閣はありませんが、地元の人たちに守られてきた素朴な社寺が多いのが特徴です。今回は府県境を越えて、隣接する交野市の磐船神社も訪れます。