ボッチャ体験翌日の9/10、前日にご指導いただいた日本ボッチャ協会の三浦裕子事務局長にご講演をいただいた。三浦さんは、競泳選手として国体優勝経験をもつ元トップアスリートである。現在、「トップアスリートと接することで、未来に向けた人生の歩みの学びとするプロジェクト」を展開する株式会社プラミンの社長をされている。事務局長と2足の草鞋を履き活躍されている。東京パラリンピックの折にはテレビでも屡々お顔を拝見した。
今回のご講演では、日本代表チーム「火ノ玉JPAN」の南米遠征について映像を交えてその舞台裏まで詳しくお話をしてくださった。映像を見ていても、とにかく選手たちのその精神力の強さには舌を巻く。長時間に及ぶ飛行機の移動も簡単ではない。中には、腹筋で体を支えられないために飛行機の座席に座ることもできない選手もいる。機内で車椅子が使えなければ、介護者に抱き抱えられての移動になる。あの狭い機内のトイレで用を足すのはさぞかし大変だろう。現地では、食べ物も日本とは違うから体調管理にもかなり気を遣う。下痢にでもなったら大事だ。
障害者と健常者が一お互いに特別に区別されることなく、同じ生活の場で一緒に暮らすのが正常(ノーマル)な社会だ、というノーマライゼーションの考え方は、1950年代に北欧から始まったが、日本では、基本的には盲・聾・養護学校に進学する別学体制が続き、卒業後は、障害者は施設で暮らし私たちと同じ生活空間で暮らすことは稀である。日本ボッチャ協会の「一緒があたりまえの社会にする」という理念を今回知り、“まだまだ一緒は当たり前じゃないんだな”と改めて感じた。
実際、三浦さんからは、「彼らは、自分たちは何もできない。社会で有益な存在ではないと思っていて自分に自信がない人が多い」とも聞いた。私は、学生の頃から8年間、障害者の介助をしていたので、なんとなくその意味が想像できる。「原ちゃん、俺はみんなが普通にやっているように社会で働きたいんだ。でもできない。それが辛い」と当時私が介助していたMさんは屡々、私に語っていた。
かつて標準からはみ出る者は排除された。しかし、今は、社会全体で障害者やLGBTQ+の人たち、高齢者も含め多様性を排除せずに社会に内包して相互に尊重し合う社会になりつつある。現実にはなかなか難しいことも多かろうが素晴らしい理念だ。「火ノ玉JPAN」の南米遠征では、“とにかく、自分の思っていることをちゃんと相手に伝えよう”と、遠征前にみんなで確認し合ったということだ。
自分の思っていることを相手に伝えることは、障害者にとっては実はかなり難しい。私が体験したある事例をご紹介したい。学生の頃、介助者が足りないから急遽新宿駅まで来てくれと頼まれたことがある。行ってみたら、私の他に介助者が3人もいたので「介助者が足りないと聞いて来たんですが?」と障害者のTさんに訊ねたら、3人の介助者の内の一人が「4人いないと車いすが運べないからお呼びしました。よかったねえTさん」と、Tさんに同意を求めた。Tさんは、すこし笑って頷いた。
私はいつも一人で介助をしていたし、車椅子は通りがかりの人に声を掛ければ、階段でもどこでも移動には何の問題もない。第一、私は、Tさんに話し掛けているのに、何故、介助者が答えてしまうのか。私は、Tと話したかったのであって、Tさんを無視して介助者に説明や了解を求めたわけではない。その日は、帰る訳にもいかずずっと同行したが、Tさんはまるで子どものように扱われ、車椅子に座って相槌を打つだけで殆どしゃべらなかった。介助者の3人は良かれと思ってボランティアに来ている。私には、その善意がTさん意思を殺してしまっているようにしか思えなかった。
東京パラリンピック金メダリストの杉村英孝氏は、JSPO Plusのインタビューで「ボッチャは、自分では『自己選択』と『自己決定』の競技。私たちは日常生活においては介助が必要。だけど、試合のなかでは誰の手も借りることができない。コートでは自分の考えたこと、やりたいことを自分で決めてプレーができる。それがボッチャの魅力だ」と語っている。電動車椅子は障害者自身の意思で動く道具、手押しの車椅子は他人の意思で動く道具。自分の意思で動かしたいと障害者の方はいう。杉村氏は、これと同じことを語っているように私には思えた。
“みんな一緒が当たり前”そんな世界の実現を願い、ボッチャを応援したいと思う。