神武天皇VS長髄彦の最終決戦!そのとき饒速日命は・・・

【現地集合・解散】奈良県の神話のふるさと~生駒山地と平群谷をあるく

4名催行添乗員同行

住吉神社(おまつの宮)

住吉神社(おまつの宮)の星が森

稲蔵寺の境内と鐘楼

稲蔵神社の烏帽子岩

岩蔵寺の境内

長髄彦本拠地碑

鳥見白庭山の碑

磐船神社のご神体と拝殿

磐船神社の伴林光平歌碑

饒速日命墳墓

平群神社

長屋王墓

船山神社の裏山

船山神社の陽石

船山神社

石床神社旧社地

石床神社は越木塚の集落の下方にあったが、いつのころか境外摂社の敷地に遷宮された

西山古墳の石室

消渇神社の御神水

消渇神社の儀式に使うどろ団子

石床神社旧社地の磐座

吉備内親王墓

出発日設定2024/07/20(土)~2025/01/12(日)
旅行代金50,000円~70,000円
出発地近鉄奈良線・富雄駅 西出口(改札)前
POINT
  • ①神武天皇の宿敵でラスボスとなった長髄彦の伝説地と味方になった饒速日命の墳墓
  • ➁おむすび型の磐座『烏帽子岩』が鎮座する稲蔵神社や奇岩怪石の宝庫磐船神社参拝
  • ③最澄と空海が共に足跡を残した岩蔵寺と『おまつの宮』の愛称で知られる住吉神社
  • ④伊弉諾尊に褒められた菊理媛を祀る楢本神社や政争に敗れた長屋王・吉備内親王墓
  • ③男性のシンボルを祀る船山神社と聖徳太子王子・山背大兄王の墓ともいう西山古墳
  • ⑤どろ団子を供え願かけが行われる産土神・消渇神社と女性のシンボル祀る石床神社
詳細

姉妹ツアー【奈良県の神話のふるさと➀生駒山地をあるく】はこちらをご覧ください。
姉妹ツアー【奈良県の神話のふるさと➁生駒山地・平群谷をあるく】はこちらをご覧ください。

1日目: 生駒山地

生駒山地は大阪平野と奈良盆地・京都盆地の境界をなす山地で、主峰は標高642mの生駒山です。明治維新以前では、河内国と大和国・京都が主邑となる山城国との境界でもあり、生駒山地の麓や、山地を通る交易路も発達していました。

この生駒山地には神話の伝説地が点在しています。以下、神名/人名は日本書紀の記載に準じます。
瓊瓊杵尊(ニニギノミコト=天津彦彦火瓊瓊杵尊)より以前に降臨したとされる饒速日命(ニギハヤヒノミコト)や、その妻の兄で生駒山地周辺に広大な領地を持っていたとされる長髄彦(ナガスネヒコ
)、そして日向国より東征してこの地を平定することになる神武天皇(カンヤマトイワレビコノスメラミコト=神日本磐余彦天皇)にまつわる伝説地が残っています。神話の世界観を現実の歴史に置き換えるのは非常に難しいことですが、神話が伝説としていまも生駒山地の人々に受け入れられていることに注目したいと思います。

神武天皇という人物がどのような生涯を送ったかは、記紀に詳しく書かれていますが、最初の紀伊半島上陸の際に兄・五瀬命が戦死したり、捲土重来を期して南紀に上陸し北上する過程で国つ神(土豪)に激しく抵抗されたりと、様々な困難が待ち受けていたと記されています。艱難辛苦の末に辿り着いた大和盆地で、神武天皇一行はラスボスとでもいうべき長髄彦と対峙することになったとされます。

当時、生駒山地を含む広大な土地を治めていた長髄彦は、神武天皇の曾祖父である瓊瓊杵尊よりも先に高天原から地上に降臨した饒速日命を妹婿(このあたりの時系列は神話の中のことなので考証の対象にはならないと思われます)にし、権勢を誇っていました。しかし神武天皇は饒速日命の調略に成功し、長髄彦はついに敗れ去ります。生駒山地と矢田丘陵の間には、長髄彦のお墓とされる古墳や、一之矢塚、二之矢塚、三之矢塚といった饒速日命の戦いに関する伝説地があります。今回は生駒山地に点在する長髄彦、饒速日命、神武天皇の関連伝説地を回ります。

夫婦塚の碑(御炊屋姫の塚伝承地)

長髄彦の妹で、饒速日命の妻とされる女性。日本書紀では三炊屋媛(ミカシキヤヒメ)と記され、御炊屋姫と表記されることもあります。長髄彦の妹でありながら、夫である饒速日命が神武天皇に臣従した際にはそれに従い、饒速日命との間に物部氏や穂積氏の租神とされる宇麻志摩遅命を生んだとされます。夫婦塚の名から、御炊屋姫と饒速日命が合葬されていると思われがちですが、饒速日命は別の場所にお墓の伝承地があります。

天忍穂耳神社

天忍穗耳尊(アメノオシホミミノミコト=正哉吾勝勝速日天忍穗耳尊)は天照大神の子で、神武天皇の高祖父で、瓊瓊杵尊と饒速日命の父にあたる神とされます。天忍穂耳尊を祀る神社は、福岡の英彦山神宮が有名ですが、ここの天忍穂耳神社は、おそらく饒速日命の祖神として祀られた可能性があります。この地で神武天皇と饒速日命、ふたりの天孫が出会い、大和平定を成し遂げたとされています。

神武天皇聖蹟鵄邑顕彰碑

皇紀二千六百年にあたるとされる昭和15年、神武天皇の御事績を顕彰するために神武天皇の聖蹟とされる場所に碑が建立されましたが、その一つに神武天皇聖蹟鵄邑顕彰碑があります。長髄彦との最終決戦の際、神武天皇の弓に光を放つ鵄が止まり、その威光により長髄彦を征討したという伝説に基づき、建碑されました。

饒速日命墓

生駒市白庭に、生駒市総合公園があります。その奥の丘陵地帯に、饒速日命墳墓と呼ばれる塚があります。サッカー場のゴールの奥から丘陵に入り、目印を辿って登ると、饒速日命墳墓の石碑と石を積んだ塚が見えてきます。天忍穂耳尊を共通の祖先とする神武天皇側につき、妻の兄である長髄彦討伐に貢献した饒速日命の子孫はやがて物部氏、穂積氏という大和朝廷に仕えた豪族として繁栄していったとされています。

金鵄発祥の處碑

神武天皇の東征の神話は、紀伊半島上陸から大和平定まで、詳細に記されています。はじめ、大和盆地の西側から攻めた神武天皇の軍は、長髄彦の軍と激戦となり、神武天皇の兄である五瀬命が戦死したとされます。日の子(天孫)が太陽に向かって進軍してはいけない、五瀬命の遺言で捲土重来を期した神武天皇は紀伊半島の南から上陸し、大和をめざし、途中に土豪との融和や戦闘を経て大和盆地に到り、金の鵄の助けを得て、宿敵・長髄彦を平らげたとされます。

長髄彦本拠の碑

長髄彦は、神話の中で神武天皇に抵抗して逆賊というレッテルを貼られてしまいましたが、もともとは大和盆地の北部、かなり広大な領地を治めていた豪族であったとされます。神武天皇の兄である五瀬命は長髄彦の矢で射られ、亡くなったとされます。日の子である我々が日(東)に向かって戦いを挑むのはよくないと神武天皇に遺言した神話が残っています。

鳥見白庭山の碑

瓊瓊杵尊の天孫降臨の舞台は、宮崎県の高千穂、鹿児島県の高千穂峰などが知られていますが、ここは同じく天孫ともいうべき饒速日命が天磐船に乗って最初に櫂峰に降臨、その次に河内国の哮峰に降臨、そして最後に大和国鳥見の白庭山に降臨したとされています。その白庭山に比定されている場所が、長髄彦の本拠地のすぐ近くにあります。神武東征はこの地で決着をみることになったとされます。

稲蔵神社

かなり以前に出版されたガイドブックによると生駒山地の山々は「神話に出てくるいかるが三十六峰」に比定されていますが、いまだにその情報ソースに辿り着けていません。稲蔵神社は生駒山地の南部に位置しており、鬱蒼とした社叢に包まれています。饒速日命が『天孫降臨』した際に同道した二神、生魂と大宮能御膳神が祀られています。境内にあるおむすび型の烏帽子岩に二神が宿っているとされます。

稲蔵寺

生駒市小明町にある小さなお寺ながら、東大寺大仏の後背が完成した宝亀2(771)年に行基菩薩の高弟・信定僧都が稲蔵大明神の霊告により開創という古い歴史を持っています。安土桃山時代、豊臣秀吉が側室・淀殿の安産祈願を行い、寺領として田園70石を寄進しました。子安地蔵尊を安置していることから、安産のお寺として地元や関西方面の人々の信仰を集めています。

★番外編: 伴林光平社関連史跡
奈良県のさいはてのバス停のひとつである北田原のバス停。この辺りは幕末の文久3(1863)年に五條代官所を襲撃し、明治維新の魁と呼ばれた天誅組に加わり、記録係として南山踏雲録を著した伴林光平が幕吏に捕縛された場所です。伴林光平の記録があったおかげで、天誅組がどのような末路を辿ったか、うかがい知ることができます。捕縛の地の正確な場所はわからず、碑や説明版はありません。磐船神社の境内には伴林光平の歌碑があります。大和法隆寺の寺侍であった伴林光平には、志士のほかに文人としての顔もありました。

磐船神社

北田原のバス停をさらに北上して府県境を越えて大阪府交野市に入ります。天野川をさかのぼると、苔生した巨岩がある神社が姿を現します。それが磐船神社です。天磐船に乗った饒速日命が二番目に降臨した哮峰はここでは?と言われています。ご神体は天野川をまたぐような舟形の巨岩で、饒速日命が乗って降臨した天磐船と目されています。清流と巨岩が独特の雰囲気を醸し出しています。『岩窟めぐり』が有名で、コンディションがよければ社務所で申し込み、チャレンジできます。

岩蔵寺

生駒山地には、伝説に彩られた奇岩怪石が点在していますが、岩蔵寺の境内にも苔生した巨巖があります。真言宗三室仁和寺派の末寺で、真言密教の修験道場であったともいわれています。開基は役行者小角で、延暦年間には伝教大師最澄が堂を建立したとされ、弘仁年間には弘法大師空海も不動明王像を刻み、洞に仏舎利を供えたといわれています。境内の巖は、修験道の修業の場であったとされます。

住吉神社(おまつの宮)

全国にある住吉神社と同様、ご祭神は底筒男命、中筒男命、表筒男命ですが、この神社には息長足姫命(仲哀天皇の皇后・神功皇后)も合祀されています。古代の日本には天照大神や月読命のように天体を神格化した神が信仰の対象となっていましたが、黄泉の国でイザナミノミコトの屍と対面したイザナギノミコトが禊を行って生まれた住吉三神も天体である可能性があります。背後の森は「星が森」と呼ばれます。愛称である「おまつの宮」の由来は不明ながら、磐船神社から松の木を移植したからともいわれています。境内には巨大な石灯籠があり、道を挟んで住吉神社の御旅所と目される土地があります。

今回の旅では、神話に出てくるいかるが三十六峰と目される山地や、丘陵地帯を歩き、神話のふるさとを訪れます。やがて大和朝廷で勢力を広げる物部氏の先祖の地と考えられています。物部氏が蘇我氏や聖徳太子によって滅ぼされた後、一族はこの地を離れ、神話と伝説の地だけが残りました。有名な神社仏閣はありませんが、地元の人たちに守られてきた素朴な社寺が多いのが特徴です。今回は府県境を越えて、隣接する交野市の磐船神社も訪れます。

2日目:平群谷

生駒山地は大阪平野と奈良盆地・京都盆地の境界をなす山地で、主峰は標高642mの生駒山です。明治維新以前では、河内国と大和国・京都が主邑となる山城国との境界でもあり、生駒山地の麓や、山地を通る交易路も発達していました。
現在の国道8号線が通る暗峠は、石畳道という明治維新前の街道の趣を残しており、旅行者や歴史愛好家に愛されています。また、山岳地帯には生駒聖天(宝山寺)や、信貴山の朝護孫子寺といった名刹もあり、関西一円や全国からの参拝者が後を絶ちません。

この生駒山地の南部に、奈良県生駒郡平群町があります。以下、神名/人名は地元の資料に拠ります。ローカルな神話に記紀に記載のない神様、平群は地域限定の神話のふるさとなのです。
平群は古代豪族で軍事貴族としての役割を担っていた平群氏の本拠地であったとされます。
一時は大和朝廷をも凌ぐ軍事力と政治力を誇り、天皇に取って代わらんとした為、武烈天皇の命によって大友金村に粛清されて没落。しかし、後に復権して朝臣を賜ったとされます。源頼朝の旗揚の際、石橋山で敗れた頼朝主従を迎え入れた安房国の豪族・安西景益は平群一族とされ、安房に平群の地名が残っています。

平群町は生駒山地と矢田丘陵に囲まれる谷のような場所に存在し、したがってこの地は古くから平群谷とよばれてきました。古色蒼然とした古い神社や古墳に出会うことのできる場所です。また、藤原氏の二代目・藤原不比等の死後、不比等の公務を踏襲して善政を行い、政治権力を手にしたものの、藤原四兄弟や聖武天皇の一派に警戒され、讒言によって滅ぼされたとされる天武天皇の孫・長屋王とその妻で、元明上皇の娘で元正天皇の妹の吉備内親王の墓が残されています。

平群谷には古代の自然崇拝の流れを汲む神社があります。平群谷の東側には境内に男性のシンボルである陽石を祀る船山神社、西側には旧社地に女性のシンボルである陰石を祀る石床神社があります。船山神社の裏山には、古代の磐座と思しき巨石がたくさんありますが、お天気がよければ、今回は裏山に登り、その磐座を見学します。今回は記紀以外の神話にでてくるマイナーな神様をお祀りしている神社や磐座を探訪します。

雲甘寺坐楢本神社(うんかんじにいますならもとじんじゃ)

延喜式神名帳に記載の古い神社です。もとは東側にあった雲甘寺の鎮守でしたが、明治初年の廃仏毀釈によって雲甘寺が廃され、現社地に移築されました。旧社格は村社で、主祭神は菊理媛神。菊理媛神は巫女の守護神、あるいは白山に祀られる神と同一神と言われていますが、記紀の本文には一切登場しない謎の神です。『日本書紀』の異伝・第十の一書によると、身罷りて黄泉国に去った伊弉冉尊を迎えに伊奘諾尊が黄泉を訪れた際、菊理媛神が何事かを伊弉諾尊に言上して褒められた、とだけあり、何を告げたのかは謎です。

吉備内親王墓

吉備内親王は、天武天皇と皇后・野讚良皇女(後の持統天皇)の皇子・草壁皇子と、天智天皇の娘で後に元明天皇となる阿閇皇女との間に生まれ、元正天皇の妹、文武天皇の姉か妹とされます。藤原不比等亡き後、権力を握った長屋王の妃でしたが、讒言によって長屋王が自殺に追い込まれると、四人の王子-膳夫王・桑田王(一説には母は石川虫丸女)・葛木王・鉤取王を道連れに自らも自殺したとされます。元正天皇のために東禅院(のちの薬師寺東院堂)を建立したといわれています。お墓は円墳。

長屋王墓

長屋王は、後に天武天皇となる大海人皇子と宗形徳善娘尼子娘の長男として生まれ、壬申の乱では大友皇子(弘文天皇)の軍を美濃国不破郡関ヶ原で敗走させたとされる高市皇子と、天智天皇の皇女で大友皇子の兄弟姉妹である御名部皇女との間に生まれました。藤原不比等亡き後、藤原不比等の行っていた政務を引き継ぎ、名君の片鱗を見せていましたが、陰謀により讒訴され、自死を余儀なくされました(長屋王の変)。彼が唐に送った「山川異域 風月同天 寄諸仏子 共結来縁」と刺繍した千着の袈裟が鑑真来日のきっかけとなったという説があります。

船山神社

延喜式神名帳に記載の古い神社です。創祀、由緒が不詳という謎多き神社で、明治初年に作成された神社明細帳によると船山神を祀るとされています。旧社格は村社で、もとは裏山に鎮座していたとされ、大正4年ごろに現社地にあった春日神社に遷座し、船山神社と社名を変えて祀り、現在に至っています。そのため、現在では天児屋根命(天岩戸神話に布刀玉命とともに登場し、天照大神を導き出す役割を担って活躍したとされる神)を春日神社の祭神としています。

🔳船山神社の旧社地(磐座群-いわくらぐん)
お天気がよければ船山神社の南に位置する小さなお堂の東光寺。スタート地点に船山神社の裏山へと入ってみましょう。山中には巨石がたくさんあり、磐座であるといわれています。古代の自然崇拝の名残です。磐座の中には大きな船の底のような形のもの、三艘の船のような形のもの等があるそうです。今回はそんな磐座の一部をご覧いただけると思います。さらに、山中には船山神社の旧社地らしき場所もあります。天児屋根命は布刀玉命と共に天孫降臨に随行し、中臣氏とその派生氏族である藤原氏の祖神となったとされます。

東光寺

真言宗醍醐派のお寺で、大和北部八十八ヶ所霊場の42番札所となっています。大和北部八十八ヶ所には同名のお寺が桜井市にあり、こちらは71番札所です。船山神社の社叢の南に隣接しており、現在は小さなお堂があるだけです。お堂の内部は原則として非公開ですが、中をうかがうことができることもあります。お堂の屋根瓦に特徴があり、四隅が大きな亀という、たいへん珍しい構造です。このお堂の東から、船山神社の頂上へとアクセスすることができます。

平群神社

延喜式神名帳に記載の古い神社です。創祀、由緒が不詳という謎多き神社で、明治初年に作成された神社明細帳によると大山祇神を祀るとされています。旧社格は村社で、延喜式神名帳には『平群神社五座 並大 月次新嘗』とありますが、その五座(五柱の神)がどなたであったか、不明となっています。おそらく、この地域で権力を握っていた平群氏が、祖神を祀ったのではないかともいわれています。石段を上がった壇上に鎮座し、立派な石灯籠を見ることができます。

西宮古墳

奈良県指定史跡の古墳で、平群中央公園の南部にあります。形状は方墳で、一辺約35.6メートル・高さ約7.2メートル以上あり、墳丘は3段という造りです。古墳時代終末期の古墳で、一説には厩戸皇子(聖徳太子)の子で蘇我氏の血を引く山背大兄王ではないかと言われています。山背大兄王は、推古天皇の死後、天皇候補の一人でしたが、田村皇子(舒明天皇)との政争に敗れ、命を奪われました(自死)。刺客には軽皇子(後の孝徳天皇)が加わっていたとも。石室が露出しており、内部に石棺が見えます。

石床神社

延喜式神名帳に記載の古い神社です。創祀、由緒が不詳という謎多き神社で、明治初年に作成された神社明細帳によると劔刃石床別命あるいは饒速日命を祀るとされています。旧社格は村社で、かつては越木塚の集落の下方にある陰石をお祀りしていたといいます。現在は、境外摂社で明治44年に合併された素戔嗚神社の社地に拝殿と本殿が設けられており、神篭石というご神体を祀っています。左右の摂社は、左側に太玉命を、右側に素戔嗚尊を祀っています。

消渇神社

石床神社の境内社に消渇神社があります。祭神は天照大神の子である天忍穂耳(饒速日命の父、天孫・瓊瓊杵尊の父)で、産土(うぶすな。土地の守護神)とされています。石床神社の旧社地のご神体が女性のシンボルである陰石であることから、女性の病気や性病に効くとされ、信者は神社に隣接する屋形で十二個のどろ団子を作って願掛けをし、満願成就の暁には米のお団子を奉納するという風習があります。また、神社の近くには御神水があります。また、近くには七柱の神を祀る七所神社があります。

石床神社旧社地

越木塚の集落の下方、小さな社叢の中に、中央に割れ目のある、巨大な磐座があり、石床神社の旧社地として土地の人によって大切にお祀りされています。磐座は陰石であるといい、女性のシンボルと目されています。古代の巨石信仰あるいは自然崇拝の名残で、そのため、社殿がないのが特徴です。船山神社の陽石と、対をなしているのかもしれません。源頼朝・足利尊氏・徳川家康の祖先とされる清和天皇の治世、石床神社は「平群石床神従五位上」を授けられています。

烏土塚古墳

烏土塚古墳は古墳時代後期の6世紀中葉に築かれた前方後円墳で、国の史跡に指定されています。墳丘は一段で、墳丘の長さは60.5メートルに及び、平群谷では最大級の古墳です。円筒埴輪列があったことが確認されており、女性の埴輪や家型の埴輪、須恵器、ガラス玉、耳環、太刀、金銅製や鉄製の馬具等が出土しています。被葬者についてはいまだ不明です。一説にはこの地で権力を握っていた平群氏ではないかともいわれていますが、この時代に平群氏の一族でこれほど豪華な墓を作れる人物はいなかったともいいます。

龍田大社

今回のウォーキングツアーの最後に龍田大社を訪れます。創建が第十代・崇神天皇の御代という古い神社です。凶作や疫病が流行ったため、困り果てた崇神天皇が天神地祇を祀って祈願したところ、「天御柱命・国御柱命の二柱を祀るように」神託を受け、創建したとされます。延喜式神名帳に「龍田坐天御柱国御柱神社二座 並名神大 月次新嘗」と記され、後に社格の高い官幣大社となりました。2020年(令和2年)6月に、龍田古道と亀の瀬と共に日本遺産に登録されました。紅葉の名所としても名高く、歌にも詠まれています。風神の姿は俵屋宗達の絵、浅草浅草寺の像に見ることができます。逃げ切りで名をあげた競走馬「アイネスフウジン」の名にもインスピレーションを与えたとされます。

今回の旅では、神話に出てくる知られざる神々や、古代の大和朝廷において一時は権力を握りながらも衰退してしまった平群氏、その土地で守られてきた聖地でありながら、近代には祭神や由緒すらわからなくなってしまっていた神社、男性や女性と目される磐座、先人から伝わるどろ団子の風習など、歴史的にも民俗的にも面白い題材の宝庫、平群谷を歩きます。今年の大河ドラマでいずれ登場する予定の島左近の史跡や古墳のある風景など、変化に富んだウォーキングツアーとなることでしょう。

旅の案内人(企画&添乗)

世界200カ国以上を歩いた“旅の鉄人”

立花 誠 (たちばな まこと)

風の旅行社に最初に入社したのが1996年4月。それから2003年まで在籍。その後、20年間の空白期間を経て2023年4月に風の旅行社に復帰。小学生のころ、中国文化の展覧会で翡翠の棺を見て、「日本の外の文化」に興味を持つ。初めて行った国は燐鉱石の輸出で世界屈指の裕福な国であったころのナウル共和国。それ以降、文化的なテーマを決めて海外旅行を続け、気が付いたら行っていない国はイスラエルとコソボだけに(2024年07月現在)。国内では「神話・伝説」に興味を持ち、紀伊半島や奈良、伊豆等を頻繁に訪れた。現在、風の旅行社でチベットやブータンを担当。趣味はコイン、紙幣、切手収集。好きな食べ物はダルバート、タジン、シャコのお寿司。

日付 スケジュール 食事 宿泊
1日目

富雄駅白庭山エリア昼食場所磐船神社おまつの宮生駒駅[cable car]宝山寺

08:45:近鉄富雄駅・西出口側の改札口の外にご集合下さい。

09:00頃:富雄駅を出発。饒速日命妃の御炊屋姫塚伝承地→饒速日命の祖先を祀る天忍穂耳神社→拝観

 ↓ 約0.3km/所要約 5分

③神武天皇と長髄彦の最終決戦の地神武天皇聖蹟鵄邑顕彰碑

 ↓ 約3.0km/所要約50分

④生駒市総合公園サッカー場のゴールの奥にある饒速日命墳墓

 ↓ 約3.0km/所要約50分

⑤神武天皇の杖に止まり軍を導いた鵄の聖地金鵄発祥處の碑

 ↓ 約1.3km/所要約20分

⑥長髄彦が生駒山地一帯を治めていた伝説地長髄彦本拠の碑

 ↓ 約0.1km/所要約 1分

⑦饒速日命が神武天皇の軍に合流したとされる鳥見白庭山の碑

 ↓ 約2.7km/所要約35分

⑧饒速日命と共に天孫降臨した二神を祀る稲蔵神社と烏帽子岩

 ↓ 約0.7km/所要約10分

⑨豊臣秀吉が豊臣秀頼の誕生を喜び、寄進したとされる稲蔵寺

 ↓ 約0.4km/所要約 6分

Ⓖゴール: 昼食レストラン

昼食はローカル・レストランにてお召し上がりください

昼食後は、路線バスを使い、下記の三か所を訪れます。

⑩奈良県と大阪府の府県境を越え北上した場所にある磐船神社

⑪役行者・小角の伝説が残る修験道の道場の趣きのある岩蔵寺

⑫星が森に鎮座する『おまつの宮』の愛称で知られる住吉神社

夕刻:お松の宮から路線バスで生駒駅へ。ケーブルカーで宝山寺駅に移動し、下車後、旅館へ。お夕食は旅館または外食となります。

旅館
2日目

平群駅雲甘寺坐楢本神社吉備内親王墓長屋王墓船山神社東光寺平群神社西山古墳石床神社消渇神社石床神社旧社地烏土塚古墳竜田川駅龍田大社竜田川駅

08:45:近鉄平群駅・ 改札口の外にご集合下さい。

09:00:近鉄平群駅を出発。平群谷エリアのウォーキング開始。平群駅から①~⑪の順番に歩きます。

 

Ⓢスタート: 平群駅改札口

   ↓  約1.0km/所要約15分

①伊弉諾尊への一言で褒められた菊理媛神を祀る雲甘寺坐楢本神社

   ↓  約0.6km/所要約10分

②元明天皇の娘/長屋王の妃で夫と運命を共にした吉備内親王の墓

   ↓  約0.3km/所要約05分

③藤原不比等没後に一時権力を掌握するも非命に倒れた長屋王の墓   

   ↓  約0.9km/所要約15分

④延喜式神名帳に記されるも祭神等が不明な船山神社と境内の陽石

   ↓  約0.6km/所要約10分

⑤亀の瓦を載せた小さなお堂は大和北部八十八か所の札所の東光寺     

   ↓  約2.7km/所要約45分

⑥延喜式神名帳に記されるも祭神等が不明な謎多き神社・平群神社

   ↓  約0.3km/所要約05分

⑦蘇我氏の血を引きながら非業に斃れた山背大兄王の墓?西山古墳

   ↓  約0.9km/所要約15分

⑧延喜式神名帳に記されるも祭神等が不明な謎多き神社・石床神社    

   ↓  約0.3km/所要約05分

⑨願掛けにどろ団子を奉納/満願成就に米団子を奉納する消渇神社    

   ↓  約0.6km/所要約10分

⑩古代自然崇拝の名残で女性のシンボルの岩を祀る石床神社旧社地

   ↓  約1.2km/所要約20分

⑪古墳時代後期に築かれた前方後円墳で被葬者が不明の烏土塚古墳   

   ↓  約1.2km/所要約20分

Ⓖ竜田川駅

※竜田川駅から信貴山下まで近鉄で移動。龍田大社まで歩きます。

Ⓢ信貴山下

   ↓  約0.3km/所要約05分

⑫崇神天皇の命で創建されたとされる風神を祀る旧官幣大社龍田大社

   ↓  約0.3km/所要約05分

Ⓖ信貴山下(解散)

出発日 旅行代金 出発地 催行状況 他
2024/07/20(土) ¥50,000 近鉄奈良線・富雄駅 西出口(改札)前 終了
2024/08/24(土) ¥50,000 近鉄奈良線・富雄駅 西出口(改札)前 終了
2024/09/07(土) ¥50,000 近鉄奈良線・富雄駅 西出口(改札)前 終了
2025/01/12(日) ¥70,000 近鉄奈良線・富雄駅 西出口(改札)前 募集中
最少催行人員 4名 (定員6名) 添乗員 添乗員が同行します。 添乗員は集合場所にて合流し、解散場所にお見送りします。
利用予定バス会社 奈良交通
利用予定ホテル

生駒山:生駒のお宿城山旅館、観光旅館やまと

一人部屋追加代金 4,000円
その他

〇夜行バス等で来られる方は、必ず前日までに奈良県に到着してください。
〇大きな移動は、奈良交通の路線バスを利用します。
〇1日目の磐船神社では「岩窟拝観」は含まれておりません。
〇旅館での夕食をジビエいする事ができます。ご相談下さい。
●より詳細な条件はご旅行条件書(募集型企画旅行)をご確認ください。

お申し込みの流れはこちら

ツアー仮予約

出発日 旅行代金 出発場所 催行状況 他  
2024/07/20(土) ¥50,000 近鉄奈良線・富雄駅 西出口(改札)前 終了
2024/08/24(土) ¥50,000 近鉄奈良線・富雄駅 西出口(改札)前 終了
2024/09/07(土) ¥50,000 近鉄奈良線・富雄駅 西出口(改札)前 終了
2025/01/12(日) ¥70,000 近鉄奈良線・富雄駅 西出口(改札)前 募集中