作家、上橋菜穂子さんの自伝エッセイ『物語ること、生きること』のなかに興味深い記述をみつけた。それは上橋さんがオーストラリアに留学していたときのこと。アボリジニ出身の学生たちはカンニングをすることに抵抗がないことに当初は驚かされたという。「俺は解答がわかった。でも隣に座っているいとこはわからなかった。シェアしなければ、欲張りな、やなやつじゃん」つまりケア&シェアなのだと。「でもそうしたら隣の子は、勉強しなくなっちゃうよね」と言ったら彼は「彼は彼で、ほかに得意なことがあるから、いいんだ」。
この返事は上橋さんの心に響くとともに、僕のメンツィカン時代の記憶を鮮明に蘇らせてくれた。メンツィカン(チベットの医学暦学院。北インドのダラムサラ)では年三回、定期試験が開催され、その都度25人の順位が0,5点刻みで掲示板に張り出される。成績がいいときは誇らしいが、下位の時はまさに見せしめ極悶の刑のごとし。ところがである。いつもではなく極々たまーにだが、2名の同級生が試験中にヒソヒソ声で教え合うのには驚かされた。もちろん全校生徒60名がその行為に気がついている。つまり「ヒソヒソ」なのに「コソコソ」はしていない。さらに管理する先生方も「おいおい、いいかげんにしなさい」と優しく注意する程度である。そういえば、試験中に監督の先生が僕の解答用紙を覗き込みながら「うーん、そうかなあ?」と誤答を示唆してくれたことがあり結果的に助けられた。その声はヒソヒソだが、やっぱり全校生徒に聴こえていた。
日本ならば即刻失格であろうし、なにしろスマホでの不正が新聞の一面を飾り国家の大事件になる(たぶん特殊な)国である。
同じことを日本在住のネパール人に質問したことがある。すると「ネパールでもカンニングは駄目に決まっているじゃないですか!」とすっかり日本人化している彼は声を荒げたあとに、ふっとネパール人に戻って「でも、勉強ができない生徒にこっそり教えてあげることは、もちろんありますよ」と当然のごとくといったニュアンスで付け足してくれた。つまりカンペやスマホを盗み見る姑息なカンニングは許されないが、人と人との触れあいがあるケア&シェアはギリギリ許容されるということであろう。他国の例をもう一つ。『フィンランド豊かさのメソッド』の著者堀内さんによると、フィンランド人は日本人と同じくカンニングに厳しいが、他のヨーロッパ諸国からの留学生たちは寛容だという。「そういったところでは、クラス全体が助け合いの雰囲気に包まれているというから、もうびっくり」と語っている。デンマークに留学経験のある学生に話を向けると「その通りです。デンマークでは試験中、助け合いの精神に包まれます」と笑って教えてくれた。
上橋さんは「広大な砂漠の中で、少人数で暮らしていれば、いちばん大切なことは『いかに調和を保つか』になる」という著名学者の言葉を引用している(注1)。なるほど、チベット人は難民という厳しい環境下では競争よりも調和が優先されてしかるべきである。
いっぽう狭い国土のなか1億人で近代国家路線を突き進んできた日本は、調和よりも競争を優先してきた。画一的に知的水準を上げ、工業生産力を高めることに重点を置いてきた(注2)。「情けは人のためならず」。ケア&シェアを容認しない厳しい社会だからこそ、日本製品には不良品が少なく国際的な評価は高くなり、翻って日本人の高い評価につながっている。その意味では競争社会を安易に批判できるものではない。ただこうして世界の多様な事例を知ることで、競争のストレスが少しだけでも緩和できればいいなと願っている。ちなみにチベット語で競争のことをデンドゥルという。
事実、僕自身、メンツィカンを卒業するころには試験の競争は遊戯的(だけど真剣)な意味を帯びるようになってきた。つまり試験の勝ち負けに一喜一憂はしても、その結果を楽しめる余裕が生まれてきたのである。7、8年目にしてようやくチベット社会に馴染んできたようだけれど、さすがにケア&シェアを実践する域には至らなかった。
そうそう、最後に忘れず記しておかなくては。試験中に(極々たまーに)ケア&シェアしていた二人組の一人は大変評判のいいアムチ(医師)になっていた。患者の悩みに懇切丁寧に耳を傾けてくれるという。ちょっとした間違いならば容認してくれそうな大らかな雰囲気が、なるほど、彼にはある。
注1
ピエール・クラストル『国家に抗する社会』
注2
内容のよい製品を大量につくるためには、なるべく知的水準が高く、画一的な知識を持った人間を大量に必要とする。そうした企業側のニーズを反映して、日本の教育は、ひたすら画一的に知的水準を上げるという制度になっていったわけである。そこでは、人格教育や個性を育てる教育などは、きれいに忘れさられていた。『学問はどこまでわかっていないか』(堀田力 講談社文庫 1997)
補足
試験中のケア&シェアは野球・ベースボールの試合に喩えるとわかりやすい。日本では大差がついても手加減しないことが美徳とされるが、アメリカをはじめとした国際社会では勝っている側が盗塁やバントをしないなどunwritten rule(不文律)が存在し、攻撃の手を緩めることが暗黙の了解となっている。これも一種のケア&シェアといえる。
また第292話第ノルトゥル ~間違い~ で言及したように、卒業暗誦試験ギュースムにおける試験監督には、暗誦チェックとともに、暗誦の伴走をする役割があり、これもケア&シェア文化の現れといえる。
関連サイト
日本で唯一のチベット医が説く「ケア&シェア」文化と健康寿命の意外な関係性(外部サイト:タイムアウト東京)
英語版
https://ps.nikkei.com/unlock/202309/thenaturalsolution.html
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