知性をフル稼働させた表現

国立西洋美術館の入り口で音声ガイドを借り、案内を聴きながらコーナーごとに掲げられた解説ボードを読んでいたら頭の芯が痛くなってきた。絵の解説を理解することで絵が解ったような気になるような観方は避けたいものだ。しかし、キュビズムの絵は、以前にも何回か観たが、音声ガイドを借りないと何が何だかさっぱりわからないだろうと思ったのでこんな観方になってしまった。

日本での本格的なキュビズム展は50年ぶりだという。ピカソ展などでキュビズムの絵が展示されたりはするが、正面からキュビズムを取り上げた展覧会は、50年間、避けられてきたということのようだ。入り口で親切心からか、「こちらはキュビズム展です。モネ展は、上野の森美術館です。お間違えのないようお願いいたします」と繰り返しアナウンスがあった。帰りに上野の森美術館の前を通ったが、モネ展は長蛇の列で、人気の違いは歴然としていた。私は、モネにはあまり興味がない。

キュビズムの原点はセザンヌにあるといわれている。セザンヌは、ルネッサンス以来の遠近法を用いた単視点描画を否定し、一枚のカンバスに複数の視点から見た画像を描く多視点描画という技法を導入した。《リンゴとオレンジのある静物》(1895年)はそれが見て取れる絵としてあまりにも有名だ。

写実から離れたという意味なら、ゴッホ、ゴーガン、そしてアンリ・マティスに代表されるフォービズムのほうがずっと写実から距離があるように思う。アンリ・ルソーになるともう空想の世界である。共通点は、個々人の感情を表現する一手段として絵があり、見たままの形や色は、描き手の主観によって如何様にも変化するということだ。

しかし、セザンヌの絵は多視点を知性で再構築している。決して感情の発露ではない。そうか、キュビズムは知性をフル稼働させた表現だったんだ。今回の収穫はこれだ。セザンヌは「自然を円筒、球、円錐としてとらえる」という言葉を手紙に残している。つまり、自然、物を多視点でとらえた場合の究極の形が円筒、球、円錐であり、そうした幾何学的な形に置き換えることで世界の本質に迫ろうとしたのだと、私は勝手に解釈した。

19世紀の中頃、写真機が登場し、ルネッサンス以来の写実主義が崩壊した。画家たちは、実物通り描くだけなら写真にはかなわないと結論づけ、印象派やフォービズムが生まれた。キュビズムもその一つなのだろうが、他の芸術運動とはスケールも影響力も全く違っていたように思う。

評論家の山田五郎氏は「キュビズムはこの時代誰もが一回は罹る麻疹のようなもの」と表現している。つまり、圧倒される強大な力に巻き込まれない者はいなかったが、しょせん麻疹で、一時的なものだった。しかし、その爪痕は確実に残ったということだと思う。

どんな展覧会でも、一押しの絵がある。今回の「キュビスム展―美の革命」では、ロベール・ドローネーの《パリ市》。幅4mもある大きな絵に描かれた古代の三美神を思わせるような3人の裸婦が真ん中に浮かぶ。やはり、ぼんやりとでもいいから何が描いてあるか分かるほうが、わたしはホットする。そんな程度だが、いつかはマルセル・デュシャンの《泉》から始まったという現代アートから、何かを感じることができるようになるのだろうか。はなはだ疑問である。

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