森に包まれる 森に遊ぶ 森に感じる 〜旅の風に吹かれて〜

風のツアーや講座に欠かせない、各方面の専門家や各地に精通した達人の皆さんに、自分のフィールドの魅力を語っていただく好評連載の第13弾。 今回は、北方の生態系をフィールドにガイドと並行して植生の調査研究にも従事する三木昇(みきのぼる)さんが登場。参加者に好評のツアー後に送ってくれるユーモア溢れる手作りの観察記を彷彿とさせる三木さん流、森のお話です。


森の奥深くで倒れたアカエゾマツの下をくぐる。その樹皮の割れ目から出てきた小さなきのこ。この風景をみたのは何時のことだったのか。それは靄のかかる道北の針葉樹林。こんなところに訪れる人は誰もいなくて、静かな、静かな森の道。エゾマツ、トドマツ、アカエゾマツの見上げるような木々が私を包んでいる。靄はマツの葉に捕らえられてしずくとなって笹の葉におちる。その音を聞きながら、去年の大風で倒れた木々を越えて、あるいは下をくぐり森に分け入る。そのとき出会ったきのこ。そして、潜り抜けて見上げた目の前に、靄は蜘蛛の巣を美しく浮かび上がらせていた。

机の前に立てかけた写真をみて森のことを思い出していた。緑のしたたるブナの森を歩く。刈払われたチシマザサの道を行くと、斜面の上に枝をひろげるブナの木。座ってくださいといわんばかりに枝をひろげる。こんな木は素通りできない。笹につかまり斜面をよじ登る。背丈を超えるチシマザサはなかなか手ごわい。木の下まで行って木に登る。枝に座って森を見渡す。これはいい。見上げれば力のある幹の動きに緑の天井。

大きな木が好きな人はたくさんいるのだろうな。だけど木に登ってどっかり座っている物好きはすくないだろうな。そういうことを思っていると、道東でであったミズナラの木を思い出した。枝がいい。これは登れなかった。枝が高すぎる。四百年はたっているだろう、手の届かない大木。そう言えば、ブランコつけたらいい木も浜中町の牧場の縁にあったことを思い出す。

針葉樹の木姿の美しいのは疎林にかぎる。森はダメなんだ。森の中にいては木姿を眺めることはできない。いい木はある。だけどこれが遠い山の中なんだよね。普通じゃいけない。チシマザサの狩払い道を歩いていくと、笹原の中に双子のアカエゾマツ。こういう木との出会いはうれしい。

亜高山帯。北海道の平坦な山の地形にはチシマザサの海に針葉樹が点在する植生がある。木が枝を伸ばし気持ちよくのびて美しい木姿をつくる。こういうところでは樹高三十メートルにはならないが、全体がよくととのった木姿となる。二百年もたったアカエゾマツ。これがいい。年老いたものの持つ風格というものだ。だが、いずれ彼らも寿命で立ち枯れる。いままで葉をつけた木もいいのだが、しだいに小さな枝も落として太い枝だけになった木姿もいい。そしてクマゲラがとまり大きな声を響かせ、時にはウソ、マヒワのとまり木ともなる。立ち枯れた木には同居人がいる。住みついたサルノコシカケの仲間。家主の中で育ち、そして柔らかくなったその木をキツツキが穴をあけ、巣穴を作り餌を採る。そうした歳月が過ぎる。そんな日々の中、いずれ木が倒れる。倒れて砕けてまさに倒壊なのだ。秋の大風の日、大風に直径が1mがあろうかという大木もこの日で倒れて砕ける。二百年を超える森の話だ。
ここで話は終わらない。続きがある。砕けた木のそばを通りかかるものがいる。その男はそこにたたずみ木の一生を思う。太い枝が目にとまる。ワインボトルよりは太い。その枝を鋸で切ろうとする。固い枝、手を休めると鋸の歯が挟まって動かなくなる。この木、死んでしまってから何十年も立つのに生きている。枝は強度を増すために繊維をねじれさせながら成長し、さらに樹脂を含ませて生き延びていた。それゆえに腐ることもなく固いままなのだ。その枝の繊維のねじれが手を休めた鋸を挟みこむ。その枝の年輪は百年を越えた。とてもとても細かい。うーん、枝で百年か。太くたくましく生きたアカエゾマツ、本体はそうすると二百年近く生き抜いていたのか、そのあとも何十年も山の上の笹原の中に立ち続け、そして倒壊。その後、通りかかった男がその枝を見てうなる。なんて長い森の話だ。まだ続きがあるな。木が土にもどるまでの話がある。それはみんなと山でみよう。
この男は私で〜す。 こんなことして遊んでま〜す。


森に包まれる  森に遊ぶ  森に感じる

森の話はつきないが このあたりでやめるか また

そういえば ニュージーランドでのカウリとの出会いは
わすれられない森との出会いだったな
巨木の幹は壁でした この木とのであい 一時間もいたかな
眺めてよし  たたずんでよし いい出会いだった

※風・通信No27(2006年夏号)より転載

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